「学校から児童画展をなくしたい」の漫画の、かなり心をえぐるような表現に共感しました。
学校から児童画展をなくしたい
https://note.akinohiro.com/n/n6649b7dfb8d1
この漫画の作者は美術大学生ですがとても心の闇を描き出せています。
単に体験を描いて「嫌な思いをした」と描くだけではないのです。
「嫌な思いをしたので社会的に訴えたい」としているのがアートの本質です。
子どもに何かを強要させている機関の上はクズばかり
はっきり言えば、
児童画展どころか、児童や生徒に何かをさせるための教育機関は上の方を知ると
「あっ税金で金もらって無実の人を浅はかに中傷して叩き落とすクズって本当にいるんだ…。滅べばいいのに。」
と擁護のしようがないほどナチュラルに感じるようになります。
単に中傷して叩き落とすだけではないのです。
税金という他人が苦労して働いて納めたお金をもらって、
それで公的に無実の人を社会的に排除するのです。
しかもそれを大の大人が、子どもをしたり顔で踏みつけてくる「憤(いきどお)りを通り越した浅ましいクズさ」を感じるのです。
学校だと、青少年人権啓発やら交通啓発やらで学校の生徒全員にポスターや作文を書かせる団体が、元校長や教員OBの天下り先です。
名だけ貸した席で文科省からたんまりカネ(元は税金)もらって自分は働かず。
生徒に啓発作文とか課題を強制して、何かした気になってカネだけ入る楽しい老後(皮肉)です。
頑張り平等論に騙(だま)されるな
公的な機関の悪態を書くと
「それでも彼ら(公的機関の人)は頑張っているんです!」
「彼・彼女らにも他人を突き落とす理由があったんだ!感謝しなければ!」
と、謎の擁護をしてくる人がいます。
こういうことを言う人は頑張り屋なので、「自分以外の人も頑張っている」というキレイ神話を信じたいのでしょう。
私も別にすべての公的機関の人が悪態をしているとは思いませんが、
問題は「みんな頑張っているんです!」という「頑張り平等論」という神様に理由を丸投げしていることです。
彼・彼女らが頑張ったのは、保身で地位にすがりついて、他人を蹴落として、見下して、いじめることであって、何かを生産したり、創造したりすることに何一つ貢献していないのです。
他人を見下すこと以外に他に何の取り柄もないのです。
泥棒がお金を盗んで「でも泥棒を頑張ったんです!」と言っているのと同じです。
殺人者が人を殺して「でも殺人を頑張ったんです!」と言っているのと同じです。
表面上の言動はキレイでも、動機も行動も悪質なので、何の擁護もできません。
「頑張り平等論」で擁護する人には
「では、その頑張った人とやらは、どれだけの労働生産性がありましたか?」
と聞くと一発で論破できます。
税金という他人からお金をもらってする行動に労働生産性はないからです。
社会問題として昇華する大切さ
自分の受けた理不尽や不条理を、自分だけの被害感情でくすぶらせたりせず、外に表現や発信して、他の人にも通じる社会問題として昇華していける人は強いです。
自分が不満で、理不尽で、不条理な体験を受けた分、人は合理的になります。
その合理が自分の行動動機へと突き動かすのです。
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