カラスが瀕死のハトを食べようとしていて、通りがかったおばさんが助けに入ってハトは逃げた。
瀕死のハトはとりあえず助かった。しかしカラスは餓死してしまうかもしれない。
この行動は正しいのだろうか?
「ハトの恩返し」はあっても、「カラスの恨み返し」もあるかもしれない。
仮にも私はスマホで撮ろうとすら思ってしまった。
助けに入ったおばさんを見てすごいなぁとは思う。
対照的に自分の下衆さに罪悪感が湧いた。
しかし人間がハトを助けたのは良かったが、カラスが死ぬ可能性がある。
正義の話~トロッコ問題から~
これはトロッコ問題と同じである。
ハーバード大学のマイケル・サンデル教授の正義論で話題になったトロッコ問題。
トロッコの線路が二手に分かれていて、片方には高齢者の集団、片方には幼児の集団がある。
トロッコは止まれない。どちらを轢き殺すのが正解か?
これにはどちらが正義という答えはない。
高齢者は老い先短いからいなくなってもいいとか、子供は未来があるから生き残ってもいいとか、どちらかを正しく選ぶなんてできないのだ。
ハトを助けるか、カラスを助けるかという問題にもどれだけ議論しても答えはない。
カラスは黒くて不潔でゴミ荒らすと言われても、日本では八咫烏で神だったりする。
ハトも白くて清潔そうで平和の象徴ではあるが、フンや感染症をバラまく公害でもある。
なぜハトを助けなかった自分に罪悪感が湧いたのか?
気になったのはハトvsカラスをスマホで撮ろうとして、おばさんがハトを助けに入った時点で自分に湧いた罪悪感。
本来、ネコ対イヌだろうと、ヘビ対カエルだろうと正義において命は平等。傍観しようが関係ない。
傍観になぜ罪悪感を感じたか?
ハト対カラスが、それを傍観する人間と助ける人間、というヒト対ヒトの倫理判断問題に変わったから。
捕食されるハトを助けなかったことに社会的正義観点から罪悪感がわく。
ただカラスも食べないと死ぬ。同じ鳥類のハトを襲うほど困窮していたということはカラスも必死だったのだろう。
これも正しい答えはない。