前回の記事で、
プロパガンダの作り方~騙されない方法~
・「対立するのを作って本質を隠す」のがプロパガンダの仕組み。
・プロパガンダの根っこは、官僚が一番得をするようになっている。
・長期的には「協調的」な行動を取ることが最も得になる。
と書きました。
例えば、今(2019年8月15日現在)の日本の社会で話題にされていることを見てみましょう。
津田大介、河村市長、大村県知事、山本太郎、立花孝志、マツコデラックス。
結論から言えば、このへんの「マイノリティ層の味方をして発言する方々」でリーグ戦させて「弱者同士で潰し合わせる」構図が「意図的に作られている」ことに気付ける人がどれだけいるでしょうか。
最後は官僚が得するだけなのです。
「叩き合わないこと」が最適解になります。
津田大介のあいちトリエンナーレの問題は放っておいても風化する
「平和の少女像」が展示された津田大介監督のあいちトリエンナーレは社会的に大炎上しました。
過去記事で書いた通り、私の予測通り、政治利用されていきました。
社会を大炎上させた最大芸術祭典「あいちトリエンナーレ」のすごさ
しかしそれに対して「ガソリンをバラまく」と脅迫文を送った50代のトラック運転手の男が、大村県知事に通報され、逮捕されました。
それ以降「生贄が捧げられて荒ぶる神が静まった」ように、過激派も沈静化していきました。
一方でトリエンナーレの「平和の少女像」は撤去され、一部展示は中止となりました。
喧嘩両成敗の折衷案で落とし所が見事でした。
あいちトリエンナーレの問題は放っておいても風化して忘れられるでしょう。
元々「平和の少女像」は「歴史の問題」であって、表現の自由で美術品としての「展示の問題」は大多数にとってどうだって良いのです。
あくまで炎上の材料として展示され、政治的に利用されて機能しただけです。
「あいちトリエンナーレは毎年している開催デマ」「昭和天皇炎上デマ」「安倍菅ハイヒール展示デマ」「税金利用デマ」・・
数限りないほどの「デマ」が流れました。
その「デマ」を感情的に信じて拡散させて炎上させ、「反日だ!けしからん!」といきがって叩けると釣られたネット右翼やB層の方々の「理性のなさ」と「危うさ」。
そこから逮捕者が出たことで、その「反日ヘイトは規制されないのか」という表現の自由を社会に投げかけることに成功しました。
降板するアーティストが出てきて展示物が減っていったとしても、あいちトリエンナーレそのものが中止されたとしても、それこそ「不自由」として社会の作品として残ります。
最初からあいちトリエンナーレを「表現の不自由展」と銘打った津田大介監督の作戦勝ちです。
これに貢献したのは河村たかし名古屋市長と大村秀章・愛知県知事の連携があります。
河村たかし名古屋市長と大村秀章・愛知県知事の連携が見事すぎる
このとき、見事だと感じたのは河村たかし名古屋市長と大村秀章・愛知県知事の連携です。
あいちトリエンナーレで日本全国から批判クレームが集まっているとき、河村市長は「あいちトリエンナーレを中止しろ。謝ってすまされる話ではない。」と強めに言いました。
これに対して大村県知事は「河村市長は何を言っているんだ」「厳正に対処する」と対立的な立場を取りました。
この2人はとても仲が良いのです。ただ表向きは仲悪いようにしています。
これが見事すぎるのです。
例えば、河村市長は市民の代表者として税金の減税を掲げています。
日本の良心。本物の政治家。リバータリアンです。
河村市長は、「消費税も法人税も減税」を言っているのですが、「消費税(弱者)vs法人税(強者)という構図のプロパガンダの洗脳されている人」にとっては「法人税を減税するとは弱者の敵!」と攻撃されています。
大村県知事は公務員の代表として、それを補うように「社会福祉」や「弱者の味方」ということを強調します。
河村市長とは真逆の官僚・公務員の思考です。
例えば、大企業(強者)からの声は河村市長が受けて、中小企業や一般大衆市民(弱者)の声は大村県知事が受けます。
河村市長は「大村県知事、何やってるんだ」と怒り、大村県知事は「河村市長、何やってるんだ」と、意見を収集して持ち上げていきます。
つまりどちらに転んでも批判の先が市長と知事の2人で収束して落ち着くのです。
批判やクレームした側からすれば「とりあえず代表として言ってくれている」という安心感を与え、2人でやりたい行政がスムーズに回ります。
考えた人は賢いと感じます。
あいちトリエンナーレの場合、河村市長への批判に対して「公人が表現の自由を規制していいのか」というやり玉を上げ、大村県知事が庶民からのそのクレーム批判を受け止めて、代表者として河村市長を批判することでガス抜きをしました。
結果、「あいちトリエンナーレの一部展示を中止」という双方を喧嘩両成敗できる折衷案の落とし所を作り出したのです。
N党の立花孝志の「やり方」がとても優れている
さて次は「NHKをぶっ壊す!」でお馴染みの「NHKから国民を守る党」の立花孝志を見てみましょう。
彼は本当に「優れたやり方」をする人物です。
具体的には「弱者を味方にして乗り込んでいく」という、プロパガンダを逆手に取ったやり方をしています。
強者は常に少数ですが、弱者は多数です。
多数派でまとまられたら、強者は恐怖です。
立花孝志の発言の節々に「自分の批判はいいけど味方してくれる人はやめろ」という「弱者の味方として発言している」という態度がみえます。
はっきり言って総理大臣にもなる可能性のある政治家だと感じます。
政治家は地位や学歴が関係ないので、こういうタイプの人のほうが向いています。
だからこそあとで墓穴を掘ることになります。なぜかはまた後述します。
少数派という最強武器を手放してしまったマツコ・デラックス
マツコ・デラックスが「N党に投票した人は遊びでいれたんだろ」とN党を批判したのは最悪の悪手でした。
N党の議員を批判するならいいのですが、それを選んだ国民を絶対に侮辱してはいけません。
国会議員は国民という大多数「弱者の代表」として選ばれているからです。
代表を批判してもいいですが、「選んだ国民が悪い」と批判するのはいけません。
更にそれを受動的にしか受け取られない公共の電波で流すので、有権者はマツコデラックスを「強者」として認識してしまいます。
マツコ・デラックスは自分も性別的な少数派マイノリティとしてテレビで意見してのし上がってきた人物ですが、それが弱者批判してしまっては本末転倒です。
逆に弱者から「マツコ・デラックスは強者だ」「セクシャルを利用して逆差別をする卑怯者だ」として批判を受ける材料を与えてしまいます。
セクシャル・マイノリティという自分の最強の武器を封じされてしまうのです。
耳の聞こえない聴覚障害者だと嘘をついてのし上がってきた佐村河内守や、五体不満足で身体障害者の乙武洋匡の不倫騒動と同じようなドツボにはまってしまいます。
誰も批判できない少数派の障害やセクシャルという話題禁忌の武器を持っていたのに、それを自分で崩してしまったのです。
れいわ新選組 vs N党という構図になる
ここからは私の予言ですが、「れいわ新選組 vs N党」という構図になります。
なぜかというと官僚なら「弱者同士で潰し合ってほしい」と考えるからです。
「障害者 vs 経済的弱者」という弱者同士のひどい構図ができるでしょう。
想定されるのは、「障害者は税金で医療タダなのはおかしい」「経済的に貧困者はもっと我慢している」という「奴隷の首輪自慢」のような「弱者同士の醜い争い」を仕掛けられます。
少数派で被害妄想が強いと「あいつはスパイに違いない」「あいつは裏切り者だ」と仲間の中で悪者探しが始まりやすいです。
山本太郎のれいわ新選組も、立花孝志のN党も国会では少数派です。
自民党や公明党と比べれば遥かに少数派なのです。
本来は、立憲民主党や社民党や共産党も巻き込んで、野党共闘しなければなりません。
これは私が小沢一郎とお会いしたときにも話されていることでありました。
小沢一郎・代表とお会いして元気をもらった
しかしこの少数派だからこそ意見を過激に言うので、墓穴を掘ってしまいやすいです。
しかしN党の立花孝志は最後は墓穴を掘ってスキャンダルで起訴される
散々に立花孝志の「やり方」の素晴らしさを支持して讃えた上で、これを書くのはおこがましいですが、立花孝志はスキャンダルで起訴されます。
なぜかというと、立花孝志は自分がのし上がるために口実として弱者を利用しているだけで、本気ではそうは思っていないからです。
なぜそれが分かるかと言うと自分から攻撃していく「攻撃性の高い行動」からです。
マツコ・デラックスへ攻撃するときに直接に乗り込んでいったり、批判するものを動画で公開処刑にしたりと、やっていることが中学生のヤンキーのような自己愛の幼い行動だからです。
素晴らしい「やり方」に対して、「人格」がついてきていないのです。
「れいわ新選組 vs N党」「障害者 vs 経済的弱者」というプロパガンダの構図を仕掛けられても気付かないで乗ってしまうでしょう。
傷害罪などの攻撃的なパワーハラスメントか、お金の横領か、いずれにしても「脇が甘すぎる」のです。
こういう人を検挙するのは、検察や警察が得意とするところです。
冤罪をかけるまでもないかもしれません。
いずれにしろ堀江貴文(ホリエモン)や小沢一郎や藤井浩人等と同じ末路になります。
「クニガキチント」と官僚に頼りだす最悪の末路への対処法
このプロパガンダの対立構図の先にあるのは「官僚様に味方してくれる自民党・公明党が安泰」「規制して増税しよう」という安全を求める世論です。
人は本能的に「前と変わらない」という安全を求めてしまいます。
そして思考停止して「国がきちんとしないと」という「クニガキチント」の呪いにハマります。
日本人の場合、危険が起こるとそれを
「国が何とかしろ」
「国さま~収集つかなくなったので助けてくだちゃ~い」
「国が規制して、増税して、いましめてあげてくださ~い」
・・と依存的に頼りに行ってしまう悪いクセがあります。
集団意識の連帯感が強いので、個人で責任を持つことに耐えきれないのです。
リバータリアンな夜警国家とは何か?~泥棒被害に会って学んだこと~
今必要なのは、大きくは「野党共闘」での連立なのです。
「NHKをぶっ壊す」こともそうですが、
「官僚が支配する自民党・公明党をぶっ壊す!」
「増税して国民を苦しめる連中をぶっ壊す!」
ことが必要なのです。
その大きい目標を忘れてはいけません。
小さな政党同士で感情的な話に巻き込まれてはいけないのです。