最近すごい動画を見つけました。形態比較言語学で古代日本語の発音方言や音韻の分布から歴史をさかのぼる検証です。博士論文級にすごいです。
魏志倭人伝で争点となるのは「邪馬台国」の位置です。「九州説」(北九州付近)と「畿内説」(奈良県付近)があります。
魏志倭人伝の中では韓国から「対馬」「一支国(壱岐)」までの経路は確定的なのですが、その後に「海を渡る」と書いてあるので、ここから指定場所の特定が困難になっているのです。
邪馬台国の場所は「邪馬台国」=ヤマトで確定
この分析では比較言語学を用いて古代日本語の発音方言や音韻の分布から場所を特定しています。
魏志倭人伝の完全解読・最新私見(暫定) とりあえず人名のみ論理に改良を重ねつつ数年内にちゃんとした形で発表する予定です。それまでの間に、万一何かの事故や病気で自分が世界が消えてしまうと知見が世界から失われるのが嫌なので、分かる人には分かるキーポイントだけ流しておきます。おそらく仲介した通詞は大陸倭...
つまり「一支国(壱岐)」から、会場ルートで日本海沿岸に沿って若狭湾(福井県・京都)から日本の本州へ入ったと推察しています。
そこから邪馬台国へ寄った後、瀬戸内海沿岸を通って戻っているというルートです。
新しい知見です
・国名列挙の伝聞は3ソースある
・瀬戸内海まわりに語派がある pic.twitter.com/2ujS8DcHGY— すきえんてぃあ@書け (@cicada3301_kig) January 2, 2021
要点をまとめました pic.twitter.com/cGhkhcHRfs
— すきえんてぃあ@書け (@cicada3301_kig) January 2, 2021
このルートだと確かに途中で他の国をほとんど通過しない。すごい。
伯耆は通過するけど海上ルートで完全にスルーしてしまう。唯一、ヤマ国(山城)だけ通過することになるが、たぶん集落の規模は大きくないし、命名からしてヤマトの属国扱いで別途に記述するほどでもないんだろうな。— すきえんてぃあ@書け (@cicada3301_kig) January 2, 2021
魏志倭人伝の解読
魏志倭人伝の翻訳
ぜんぶ太字だと見にくいので修正しました pic.twitter.com/X4gGO52FDQ
— すきえんてぃあ@書け (@cicada3301_kig) January 2, 2021
ここでは魏志倭人伝の解読をしています。
元になった論文を読むと更に詳細が書かれています。
人名・地名の特定
魏志倭人伝の完全解読です
ついに達成しました言語学の勝利 万歳 pic.twitter.com/UHeASKT3rm
— すきえんてぃあ@書け (@cicada3301_kig) January 6, 2021
「都支」toke トケ 上代中部語→刀支 toki 岐阜県刀支縣(土岐県)
「彌奴」mino ミノ 上代東海語→美濃 mino 岐阜県美濃国
「不呼」pupa プパ 前上代関西語→不破 fuwa 岐阜県不破郡
この動画の作者の医師は、コンピュータ言語解析による古代日本の発音方言の分布から、邪馬台国の位置を「畿内説」にほぼ確定してます。
「邪馬台国(ヤマタ)」→「ヤマト」そのまま奈良にあったということです。
その上で、魏志倭人伝に示された距離の地名を当てはめています。
「美濃」と「土岐」と「不破」がある?
美濃
#38 彌奴 LHC *mie-nɔ (place name) Wa *menɔ
This is likely an earlier form of the place name myinwo.It is not sur-prising that the place name mino is found through out Japan.
The name is usually interpreted to mean ‘honorable-field’ 御 野 (and later re-interpreted as ‘three fields’ 三野), but there is no evidence for either etymology.
Kusuhara (1981:298) believes this is really ‘water-bog’ myi-nu>myinwo, but the above transcription clearly has *-nɔ, with a mid,and not a high, back vowel.What is very encouraging here is the honor-ific prefix *me, because in many Ryūkyūan dialects (especially Yaeyama and Yonaguni) *mi>N, but *me>mi.
Ishigaki preserves an example of miyu ‘honorific world’ (compare Old Japanese myiyo).⁵¹ Miyara (1937:136) records examples of miya ‘palace’ in Ishigaki as me:, and Hateruma and Yonaguni as miya:. These forms go back to *meya (>miya>miʸa>mia>me:).
Finally, Yaeyama preserves examples of misï ‘rice wine’(Ishigaki, Hateruma), misi (Kohama), miki (Hatoma), and miti (Yona-guni), all forms that must go back to *meki (compare with OJ myikyi‘august rice wine’).January 2008
John Bentleyj “The Search for the Language of Yamatai” Japanese Language and Literature (42.1), pp. 1-43.
https://www.researchgate.net/publication/272826563_The_Search_for_the_Language_of_Yamatai_Japanese_Language_and_Literature_421_pp_1-43
#38位 彌奴 LHC *mie-nɔ (地名) Wa *menɔ (地名)
これは地名myinwoの前身と思われる。
美濃という地名が日本各地にあるのは不思議なことではない。この地名は、通常「誉田」御野(後に三野と再解釈)と解釈されるが、いずれの語源にも根拠はない。
楠原(1981:298)は、これは本当に「水飲み場」miy-nu>myinwoであると考えているが、上記の転写は明らかに*-nɔであり、後ろの母音は高くなく、中くらいである。ここで非常に心強いのは、敬語の接頭辞 *me である。と与那国)では*mi>Nであるが、*me>miである。
石垣にはmiyu「敬世」(古語miyyoと比較)の例がある⁵¹宮良(1937:136)は石垣のmiya「宮」をme:、波照間・与那国をmiya:として記録している。これらの形態は *meya に遡る(>miya>mi ʸa>mia>me:)に戻る。
最後に、八重山では、misï「米酒」(石垣、波照間)、misi(小浜)、miki(鳩間)、miti(与那国)の例が残っているが、これらはすべて*meki(OJ myikyi「オーギュスト米酒」に比較)に戻らねばならない形態である。
土岐
#37 都支 LHC *tɔ-kie (place name) Wa *tɔke
Wamyōshō notes that there is a place name 罵城 pronounced 度岐 toki.If the original spelling is at least a century older than the manuscript of Wa-myōshō, then the final syllable would be -kiy, instead of kyi, which woulddisqualify this candidate.
Perhaps this is the OJ word tukyi ‘ibis’.
Martin(1987:554) independently reconstructs the proto-form as *twokyi.
The difficulty here is explaining why the final syllable did not remain *ke.
It is also possible that this is an Ainu place name, perhaps PA *tɔ-ke ‘lake-place’, or the place of the lake. Similar toponyms with -ke are found in northern Japan: Kim-ke ‘mountain-place’ and Pan-ke ‘downstream-place’ (cf. Chiri 1956b:45).January 2008
John Bentleyj “The Search for the Language of Yamatai” Japanese Language and Literature (42.1), pp. 1-43.
https://www.researchgate.net/publication/272826563_The_Search_for_the_Language_of_Yamatai_Japanese_Language_and_Literature_421_pp_1-43
#37位 都支 LHC *tɔ-kie (地名) 和 *tɔke
和名抄』は、度岐トキと発音する地名罵城があることを指摘している。
和名抄の写本より少なくとも一世紀以上前の原綴りであれば、最後の音節はkyiではなく-kiyとなり、この候補は失格となる。
おそらくこれは、OJ語のtukyi「トキ」であろう。
Martin(1987:554)は独自に原形を*twokyiとして再構築している。
ここでの困難は、なぜ最後の音節が*keのままでなかったのかを説明することである。
また、アイヌ語の地名である可能性もあり、おそらくPA *tɔ-ke「湖のある場所」、または湖の場所であろう。同様の-keを伴うトポニムは北日本に見られる。キム・ケ「山の場所」、パン・ケ「下流の場所」(参照:知里 1956b:45)である。
toki tɔke
-keは「場所」という意味。
「美濃」は旧名の「三野」で同じなので確定だろう。「土岐」はアイヌ語の可能性も示唆されていた。土岐(toke)のkeは「湖のある場所」となるようだ。これは琵琶湖のことか…?
不破
#39 不彌 LHC *pu-mie (place name) Wa *pume
Perhaps this is ‘spot, design’. Ishigaki preserves fumi ‘spot, design’https://www.researchgate.net/publication/272826563_The_Search_for_the_Language_of_Yamatai_Japanese_Language_and_Literature_421_pp_1-43
#39位 不彌LHC *プーミー(地名) ワ *プメ すると動画(画像)の「彌奴」(メノ)「都支」(トケ)←当時の発音、の場所が今の「美濃」「土岐」に合致します。 3世紀の魏志倭人伝なので、8世紀の日本書紀の「刀支」という土岐の最初の記述よりも古いことになります。 清和天皇源氏はもちろん、美濃の守護大名「土岐一族」が生まれる以前の話です。 「希少言語は地名に残る」傾向があります。 古くからの言語の部族が美濃や土岐や不破にいて、その土地の名前を冠して「美濃」「土岐」になっているのです。 keは上古中国語、新羅の漢族はニギハヤヒ(饒速日命)王朝に従って日本で豪族となったのでその一角であった可能性もあります。 新羅の王族の「阿智氏」(阿閼)が信州(現在の長野県)に根付いているのでその流れかもしれません。 弥生時代(魏志倭人伝)の頃の美濃の土器の分布線とも一致します。 魏志倭人伝に「美濃」「土岐」が出ていたことにも驚きましたが、以前、岐阜県美濃加茂市の文化の森の展示でみた図でその当時(弥生時代)の土器の分布にもカブることに驚きました。 弥生時代の前期、日本の東西で分かれていた土器は 邪馬台国の「北九州説」では、「都支国」は福岡県築紫野か五島列島あたりとされますが、正直その根拠はありません。 しかし「畿内説」だと美濃も土岐もピッタリの地名に来るようです。 関連する地名や神社を近隣で探すと新たな発見がありそうですね。 まだ確定的ではないようですが、このようなワクワクする考察は好きです。 ※[toke] は多祁理宮のあったとされる広島県の多家神社、という可能性をご指摘いただきました 坏が含まれている可能性もあるか [toke] は多祁理宮のあったとされる広島県の多家神社、という可能性をご指摘いただきました 瀬戸内では音韻対応がキモいことが判明しつつあるのでたぶん行けそうです https://t.co/xAI8r7stjb — すきえんてぃあ@書け (@cicada3301_kig) January 2, 2021 例えば、岐阜県中津川の「神坂」。中津川のヤマトノタケルの伝承はどうやら史実かもしれません。 この先に「阿智」という長野の地名があるのがとても重要だからです。 難読地名「神坂」日本武尊が東国征伐で峠通る 古事記伝などにも記載 岐阜県中津川市東部で長野県と接しており 新羅から来た王族の「阿智氏」(阿閼)が信州に根付く。 2世紀頃。ヤマタノオロチ伝説(大和のヤマトノタケルが漢語族系(新羅に行ったが反新羅になって戻ってきた倭人)の出雲の龍蛇神を倒したという話)の後。
おそらくこれは「スポット、デザイン」であろう。石垣ではフミ「スポット、デザイン」
「都支」「度岐」「礪杵」「刀支」「土岐」と移り変わったようです。美濃の土器の分布線とも一致
西は遠賀川式土器が北九州から広がって伊勢湾岸まで。
東は縄文時代の伝統を強く受けた条痕文土器が出回りました。
岐阜県の美濃加茂市付近で重なり合います。
(中世朝鮮語 tok なので *toki の可能性)
岐阜県中津川市のヤマトタケルノミコト伝承は史実
峠の名前の由来には「日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国征伐の際通ったという記紀(古事記・日本書紀)の伝承による」とあり、「神の御坂」とも書くそうです。「万葉集」には旅の無事を祈る防人(さきもり)歌が収められているほか、「古事記伝」や「今昔物語集」などにも記載
反・新羅の連中(出雲系)を倒してから、新羅から丁重に長野県信州へ移り住ませているのです。