NHKの歴史ヒストリアの聖徳太子特集を見ていて、聖徳太子の墓が絹で、中臣鎌足の墓が麻で絹の方が高価。墓だけでも明らかにライバル意識がある。やはり聖徳太子は蘇我入鹿本人なんじゃないかと確信が強まりました。

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聖徳太子は蘇我入鹿である

倭国の時代 (ちくま文庫)

NHKの番組の中でも『法隆寺釈迦三尊像と救世観音像が坐像と立像の違いだけで「聖徳太子」本人である。』と言っていました。
私もそう思います。座ってるか、立ってるかの違いだけです。

法隆寺釈迦三尊像

救世観音像

両方とも身長178cm程度。
長身だった聖徳太子の伝記、建立時期も合います。
ちなみに蘇我入鹿も長身で同じくらいの身長だったと言われています。やはり同一人物なのでしょう。

教科書には書かれませんが、古墳時代~飛鳥時代、中国大陸の方から「華僑(かきょう)」という民族が入り込んできて争っていたのが史実です。

華僑とは、中国大陸・台湾・香港・マカオ以外の国家・地域に移住しながらも、中国の国籍を持つ漢民族のことです。

今のアメリカで言う「グローバリスト」。母国を持たないで移住するユダヤ人。そのアジア版のような感じです。

上記の「倭国の時代」の著者、岡田英弘学の説によれば、出雲系である蘇我氏は華僑であり、同様に物部氏も華僑であり、先史・古代史は、大陸から中国人が入ってきて「華僑 vs 反華僑」で日本国内で争っていたのが真相であると書かれています。

また、倭人の天智天皇(=中大兄皇子)が、華僑の蘇我入鹿(=聖徳太子)を倒したのが大化の改新であり、それが日本建国の原動力にもなったと書いてあります。

私もそう思います。

これは教科書にも書いてありますが、弥生時代から「渡来人」と言って大陸から稲作を伝えたり、シルクロードを渡って正倉院のペルシャ椀(白瑠璃碗)などが渡ってきた話が出てきます。

しかしそれ以降、渡来人に触れられることがありません。

その後、なぜか急に日本各地で戦いが始まっていきます。

人が戦争のような殺し合いを始める時は、大きく3つの順で起こりやすいです。
1:血(民族)
2:言語
3:宗教

戦争の原因は 血(民族)>言語>宗教 の順で起こりやすいのです。
民族(血)が違うと思うと殺す。
次に言葉が通じないと殺す。
次に宗教が違うと殺す。
「言葉の違い」「宗教の違い」まして「思想の違い」程度では歴史的にもそんなに殺し合いは起こらないのです。

つまり大陸からの血(民族)が攻めてきたので戦ったのです。

もともと蘇我氏は出雲系、出雲大社のある島根県のように「なんであんな海沿いにあるのか?」と言えば、日本人の他の神社の立地を見れば察します。
「故郷の方角」「御神体がその先にあるから」です。
北野天満宮が北向きだったり、浄土系本堂が東向きだったり、諏訪大社が守屋山を信仰しているのと同じことです。
出雲大社の本殿は海の先、故郷である中国・朝鮮なのです。

日本は「漢字」と言われるほど「漢の字」、つまり昔から中国の柵封国(属国)だったのです。

これが教科書に書きたくないことです。日本民族のアイデンティティを失いかねないからです。

聖徳太子=蘇我入鹿は、大陸から来た身長180cm弱ある長身の人物でした。

それが天皇の側近となって、日本を牛耳りながら、「日出処の天子」と中国の柵封から独自に距離を取ろうとしていました。

また聖徳太子は秦河勝のような秦氏の族長的人物をブレーンとしておいて活躍していました。
秦野の歴史-秦氏と秦野 http://t.co/gO47OKDe

孔子が「和して同せず」と注釈していることを、聖徳太子が「和をもって貴しとなす」として和することも同ずることも区別がなくしてしまいました。

「和」は「みんな同じになること」という伝統を無規範に拡大してしまい、日本を和同開珎に象徴されるような全体主義の国にしました。

聖徳太子は仏教を利用していましたが、本質的には五斗米道(ごとべいどう)を信仰していました。

「五斗米道」(ごとべいどう)とは、三国時代の魏で、道教(タオニズム)と仏教が混ざって土俗化して流行った宗教です。
これが日本の陰陽道・易学になり、のちに神道となりました。

仏教の密教部分の源流が道教(タオニズム)であることは明白です。

密教は、山岳信仰、火や水などの自然信仰を行い、神秘的で呪術や占い要素が根底にあります。道教そのものです。

そして「五斗米道」(ごとべいどう)」という「三国時代の魏で道教と仏教が混ざって土俗化して流行った宗教」が「日本の陰陽道・易学」になり、のちに「神道」となり、日本建国の原動力になったのです。

大化の改新で倒されたのですが、あまりに影響力が大きかったので呪い祟ることを畏れ、後世の人間はそれを逆に利用しようしたのです。

崇徳天皇や平将門や菅原道真の怨霊と同じです。

日本人は古来より手がつけられないほど恐ろしい荒ぶる神は、退治するのではなく、もう崇め祀ってしまおうとする空気の風習があります。

「コワイけど、すごい。」ということで法隆寺釈迦三尊像=救世観音像のように何重にも包帯でぐるぐる巻きにして、夢殿でアーネスト・フェロノサに発見されるまで封印していたのです。

中大兄皇子(倭人=天智天皇)の蘇我入鹿(華僑=聖徳太子)暗殺事件(乙巳の変(いっしのへん、おっしのへん))に怒った蘇我蝦夷は大邸宅に火をかけ自害しました。

この時に朝廷の歴史書庫までも炎上してしまいました。

その後に「記紀」と総称される太安万侶(おおのやすまろ)の『古事記』や、舎人親王(とねりしんのう)の『日本書紀』として「編纂」されたのが日本の歴史なのです。

俗っぽい言い方をすれば、自らの家系の話をSFライトノベルのように神話化することで、権威付けを行っていったという裏が分かります。