日本の歴史の教科書で「弥生時代から渡来人から稲作が伝わり・・」「青銅器が伝わり・・」「飛鳥時代には地方豪族が古墳を作り・・」「魏王から金印が・・」「正倉院ではシルクロードを通ってペルシャ椀の・・」と出てきます。

日本では縄文時代で土器を作っていた時代から、米作りが起こり、農具が作られ、戦いが起こって・・という歴史があります。

ここの流れを不思議に思ったことはありませんか?

歴史教科書は詳しく言及しませんが、ここで大切なのは「渡来人が日本に来ている」という事実です。

渡来人とは、外国から日本に来た外国人のことです。

日本の教科書では、一切、渡来人に触れられていないのです。

お米や青銅器や古墳や金印やペルシャのお椀が物だけ単品で、今のようにAmazonの海外お取り寄せで並行輸入されていたわけではありません。

その「物」を伝えた「渡来人の人間そのもの」も日本に入ってきて、すでに混血して日本で子孫を増やしているのです。

これは遺伝子分析で、元々の日本人のD染色体が、ユーラシア大陸系のO染色体と弥生時代の頃から混血していた事実からも分かります。

古代の日本ではすでに当時の大国であった中国や朝鮮とは国交をもっていました。

日本の歴史は日本単独ではなく、世界史の歴史と並行して見ると新しい発見ができます。


ロシアのバイカル湖から来た日本人の先祖と縄文人

縄文時代は紀元前1万4000年頃~紀元前10世紀と、計1万5000年ほどのとても長い期間がありました。

意外ですが日本人の先祖のルーツはロシアのバイカル湖から来ています。

遺伝子DNA研究の染色体分析の結果で明らかにされ、NHKで2015年に「分かってきた縄文人のDNA」で特集されました。

バイカル湖畔から南下し華北に暮らしていたD系統だが、漢民族の圧迫から逃れるためにさらに南下し日本列島にやってきて、縄文人の中核を形成した。
かたや、弥生時代に渡来した人々は長江流域で水稲栽培をしていたO系統だ。やはり、漢民族に滅ぼされて逃れてきたという。また、朝鮮半島の人びともO系統である。

人種の違いを識別できる「血液型Gm遺伝子」の分布から、日本人の先祖はロシアのバイカル湖から南下してきたことが判明したのだ。
(中略)
現代の日本人の体の中に占めるD系統の割合は3割、O系統は5割と、渡来系の比率が高い。この数字だけ見れば、やはり渡来人に先住民が圧倒されたと思えてくる。しかし、前回示した「少数渡来」「先住民との融合」「列島人の稲作民化」「継承された縄文文化」「稲作民の人口爆発」という有力な仮説を用いれば、謎はなくなる。

まとめると、
・ロシアのバイカル湖付近のD系統の遺伝子をもつ人が、漢民族から逃れて日本へやってきて縄文人となった。
・弥生時代になると長江や朝鮮でお米を作っていたO系統の遺伝子を持つ人が、日本に渡来して混血した。

というのが最新の学説です。

お米と一緒に渡来してきた漢族の弥生時代

弥生時代は、紀元前1000年~紀元後300年(紀元前10世紀頃から紀元後3世紀中頃)です。

弥生時代=お米、稲作と記憶している人も多いでしょう。

遺伝子研究で、
・弥生時代になると長江や朝鮮でお米を作っていたO系統の遺伝子を持つ人が、日本に渡来して混血した。
ことからも分かるように、

弥生時代、大陸は秦の始皇帝の時代で、漢族が日本に移住してきました。

そのときに一緒に稲作も伝わりました。

秦(しん)の国から来たので、この時に来た渡来人はのちに「秦(はた)」という姓を名乗ります。

ちなみに天皇家の発祥自体は正確には不明ですが、のちの712年「古事記」や720年「日本書紀」によれば日本の起源として、神武天皇が紀元前660年2月11日に日本の最初の天皇になったと伝承されています。
神武天皇は、三種の神器を持って東に進撃して日本全土を制圧したとされています。

つまり天皇家は弥生時代に出来たということです。

もちろんこの頃の日本人は、
・ロシアのバイカル湖付近のD系統の遺伝子をもつ人が、漢民族から逃れて日本へやってきて縄文人となった。
という縄文人のD系統遺伝子も受け継いでいます。

弥生時代は共同体が西から始まり、ゆっくりと東へ拡大していきます。

西暦200年頃には東京にまで達し、人口は60万人はいたと推測されています。

興味深いのは、弥生時代の誕生と衰退は、漢王朝(紀元前202年~西暦221年)と一致しています。

弥生の共同体と漢王朝は外交を行っていたという記録もあり、実際に弥生時代と漢王朝は二人三脚でした。

(参考文献)
Japan (Illustrated Histories (Hippocrene)): An Illustrated History (Hippocrene Illustrated Histories) (English Edition)


交易が途切れて国内で豪族が盛り上がった古墳時代

古墳時代は200~600年頃(3世紀中頃~7世紀頃)です。

古墳時代、大陸では魏の国が滅びて大陸は混乱しており、朝鮮は高句麗が支配していました

今まで大陸との交易が切れてしまい、日本各地で豪族が盛り上がってきました。

ここで初めて、伝承ではなく実在として崇神天皇(紀元前148年~:日本の第10代天皇)が出てきます。

「魏志倭人伝」に記されている倭国の王である邪馬台国の卑弥呼(ひみこ:日巫女。生年不明~242年~248年頃)も古墳時代です。

姓を名乗るようになった飛鳥時代

飛鳥時代は592年~710年頃です。

当時の覇権国であった中国(漢)の「漢字」を使って名乗るようになりました。

中国から日本に入ってきたものは「字(あざな)」と呼ばれます。

臣(おみ)とよばれる奈良近辺の地域の地名を持つ豪族と、

連(むらじ)とよばれる奈良で朝廷(天皇)から役職の名前をもらって天皇家に仕えたヤマト朝廷の一族が出てきます。

今までの経緯をまとめると、

臣は、後から日本に来た渡来人。

連は、先に日本に来た渡来人です。

後輩と先輩の関係です。

臣(おみ)の姓を持つ一族には、葛城氏、平群氏、巨勢氏、春日氏、蘇我氏があります。

連(むらじ)の姓を持つ一族には、大伴氏、物部氏、中臣氏、忌部氏、土師氏があります。

(ちなみに遺伝子的にはすでに双方ともO系統の遺伝子をもって混血しています。)

なぜ天皇側近でも名字に「部」がついていたのか?

豪族は所有民の名字に「部」をつけて名乗らせました。

これは部曲(かきべ)と言って、魏晋南北朝時代の部隊の呼称です。隷属した農民や職業集団のことを指します。

大伴部、中臣部、土師部・・などです。

連(むらじ)も、なぜ天皇家に仕えるほどの一族なのに奴隷を数える単位の「部」とついていたかというと、のちに忌部家の斎部広成(さいべひろなり)の「古語拾遺」(平安時代の書物)で語られるように、

「漢語」が使えて漢との交易に役立ったの渡来人であったからです。

天皇家が弥生時代以前からD系統の遺伝子を持って存在しており、
あとから渡来人の大伴氏、物部氏、中臣氏、忌部氏、土師氏
更にあとから渡来人の葛城氏、平群氏、巨勢氏、春日氏、蘇我氏

の年功序列になるので、天皇家から見れば、みんな後から来た渡来人なのです。

この名字に「部」をつける風習は後に廃止されます。

しかし今でも名残として物部、忌部、服部・・など名字の後ろには「部」がついているものもあります。

そしてこれら豪族の中で、有名な「日本古来の神道派の物部氏 VS 中国の仏教派の蘇我氏」という対立が起こりました。

ここまでの経緯を知ると「先に日本へ来た渡来人」と「後から日本へ来た渡来人」との間で戦いが起こっていることが分かります。


大化の改新で殺された蘇我入鹿=聖徳太子

この対立の中で「大化の改新」が起こります。

大化の改新とは、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ:のちの天智天皇)と、中臣鎌足(なかとみのかまたり:のちの藤原氏の祖)が中心となって行った蘇我氏を倒した革命です。

大化の改新で殺されたのは蘇我入鹿です。

この蘇我入鹿(出生不明~645年)という人物は、聖徳太子(574年~622年)と同一人物であるという説があります。

私はこれは正しいと思っています。

過去にNHKでも特集されましたが
・共通点が多すぎる。
・仏教(特に五斗米道)を重んじる。
・聖徳太子の180cmという異様な身長の高さと大陸人の体型。
・聖人じみた名前でなぜか蘇我氏の法隆寺で祀られる(殺したのでタタリが起きないように)

詳しくは過去記事でも書きました。

(参考)過去記事
聖徳太子=蘇我入鹿=華僑=法隆寺釈迦三尊像=救世観音像という真実

聖徳太子は中国の天命思想・易姓思想の冊封体制から日本を独立させた

当時すでに魏の国は滅びて混乱し、隋(581年~618年)に再統一されました。

聖徳太子(蘇我入鹿)は、607年に小野妹子という遣隋使を遣わせて

「日出る処の天子、書を没する処の天子に致す」

と国書を随に送り、

「日本は独自でやっていきます」

と随と対等の立場を見せることで大陸の冊封体制(中国を中心とした中華思想)から日本を独立させようとしました。

端的に言うと、当時は、中国(随→唐)と朝鮮(高句麗・新羅・百済)で争っており、日本もその対立に巻き込まれていました。
日本は中国と友好にしたいのであれば天皇家に中国系の氏族を入れなければならないし、
対立するのであれば天皇家に朝鮮系の氏族を入れるという中国の顔色をうかがった外交をしていました。

当時も欽明天皇、推古天皇の流れの中で、蘇我氏の血筋を入れるかどうかで皇室はもめています。

これは天命思想・易姓思想という中華思想です。

「天」という皇帝・天皇、トップが変われば、世の中が変わるという思想です。

逆を言えば、「天」(トップ)が変わるということは、それまで「天」に従っていた仲間は皆殺しにされるのです。

今ではありえないような話ですが、古代中国では残虐にも「社長が変わったら社員も皆殺し」ということをしていました。
そのためには死ぬ気で自分の推す人をトップにしなくてはならないし、謀議や謀略が渦巻くのっぴきならない政治の世界でした。

それまで中国(大陸)の冊封体制の中の日本だったので、中国の「天」に日本も巻き込まれてしまいます。

日本は聖徳太子が日本を独立させて以降はこの中華思想に巻き込まれぬように「万世一系」と言って、一つの家系が万世まで永遠に継ぐという様式に変わりました。


聖徳太子が信仰していた仏教は「五斗米道という道教」

聖徳太子(蘇我入鹿)としては、勢力を拡大する中国(随)や南朝鮮(百済や新羅)と距離をおこうとしました。

元々、蘇我氏は出雲系(島根県)から派生した氏族で朝鮮から南下した渡来人です。

どこと仲良くしたかったかと言うと高句麗です。

事実として、聖徳太子の師匠は、恵慈(えじ:~623年)という高句麗の仏教僧です。

教えは高句麗の恵慈という仏教僧から教わっています。

中国(随)や南朝鮮(百済や新羅)の仏教と、北朝鮮(高句麗)の仏教はかなり違います。

高句麗では五斗米道と呼ばれる道教の要素の強い仏教が普及していました。

日本では「五斗米道(道教)」は、古代に卑弥呼が信仰していました。

当時は「鬼道」という名称でした。

日本神道の源流となった道教が「五斗米道」です。

のちに日本では陰陽師の「陰陽道」という形で体系化されます。

なぜ蘇我入鹿=聖徳太子は殺されたのか?

後から渡来人である臣(おみ)の蘇我氏である聖徳太子のこの時点の中国・朝鮮切りという行動は、
先に来た渡来人の連(むらじ:大伴氏、物部氏、中臣氏、忌部氏、土師氏)から見れば、

「蘇我氏は何を勝手なことをしてくれているんだ!」「あいつら出身地が違うからね!師匠が高句麗の僧だし!スパイか!」と怒るわけです。

当時の高句麗は、今の北朝鮮、中国の華北まで治める大きな国でした。

聖徳太子の読みでは、中国の属国となった南朝鮮(百済や新羅)と敵対するには、北朝鮮と結べば挟み撃ちに出来ます。
中国への圧力にもなります。

それまで高句麗が朝鮮を支配して勢力拡大しており、中国(唐)を遠ざけるという聖徳太子(蘇我入鹿)の判断としては的確でした。

しかしそれ以降、最終的には660年に唐が新羅を支援・同盟して(羅唐連合)、新羅は660年に百済を滅ぼし、668年に高句麗を滅ぼしました。

日本もこの時、白村江の戦い(663年)で朝鮮に百済の援軍に行き、日本・百済の連合軍 vs 唐・新羅連合軍で戦いました。

そして日本は負けて帰ってきています。

もしこの時、日本が高句麗の味方をして、百済とも仲良くしておけば、中国(唐)・新羅の軍に立ち向かえたかもしれません。

いずれにしても中国(唐)は、朝鮮を属国の新羅によって統一させることに成功しました。


「先に日本へ来た渡来人」と「後から日本へ来た渡来人」

このように、
後からきて仏教を広める渡来人の地方豪族の臣(おみ)の蘇我氏(及び葛城氏、平群氏、巨勢氏、春日氏、蘇我氏)の家系を、
先に来た渡来人である連(むらじ)の大伴氏、物部氏、中臣氏、忌部氏、土師氏の家系は排除したかったのです。

いずれにせよ中国(唐)からの独立は達成したので、手柄は蘇我氏ではなく、中大兄皇子(天智天皇)と中臣氏(藤原氏)のもの。

大化の改新(645年)で「日本」という国号と、「大化」から「年号」がの呼称が日本で始まりました。

昭和、平成、令和・・などの日本の元号は大化の改新の「大化」が最初です。
この言葉も、当時から中国の漢文古典を引用しています。

当時は漢語は、覇権国であった中国様の言葉。エリートの言葉。貴族や僧、あるいは元より渡来人や、語学留学した日本人しか使いこなせません。

今でいうと英語のTOEFL満点のようなもの。エリートビジネスマンしか使えないような言語でした。
言語だけは体裁を取っていたのです。

結果的に、連(むらじ)からすれば、聖徳太子(蘇我氏)の思惑通り、冊封体制から抜け出して、中国や朝鮮とは距離を置くことで自分たち天皇家を守れたわけです。

しかしそのアイディアの発端が自分より下であるはずの臣(おみ)の聖徳太子(蘇我氏)から出ているので、手柄になるのはまずい。

なので口封じで蘇我氏を殺してしまって、同時に祟られないように法隆寺で仏像として祀ろうというのが大化の改新の真相です。

余談ですが、
滅ぼされた百済と高句麗の王族は日本にのがれました。
百済の王族は百済王、高句麗の王族は高麗王の姓を受け継ぎました。
そして高麗王氏は埼玉日高市(高麗本郷・高麗神)を開拓して日本に文化を伝えました。(「三国史記」「三国遺事」)

のちの足利尊氏に仕えた武将の高師直(こうのもろのぶ)などの「高氏」は、この高麗(高句麗)系の渡来人が出身国の一字をとって高氏を名乗りました。

天皇家は秦氏関連の神社は公式化してくれない

前記事
天皇の即位の衣装を作る徳島県の古代氏族・忌部家の存在
で書いたように、

忌部家の斎部広成(さいべひろなり)は、平安時代の神道資料「古語拾遺」(こごしゅうい)の中で、渡来人を褒め称えて「渡来人はこんなに国家に貢献しているのに、なんで渡来人の氏族の神社は国家的祭祀を受けてないんだ!」とまで書いています。

(参考文献)
神社検定公式テキスト9 神話のおへそ『古語拾遺』編 (扶桑社BOOKS)

ここまで読むと、なぜそんなに渡来人を持ち上げたいか理由を察します。

確かに斎部広成の言う通り、渡来人の神社は公式に「国家的祭祀」はされていません。

例えば、「日本書紀」の雄略天皇15年条では、渡来人である「秦氏」(はた氏・はだ氏)は絹の織物を献上したたことが評価されて「うずまき」の姓を賜ったとあります。

そこで今の京都の「太秦(うずまさ)」の太秦寺を本拠地としました。

京都で秦氏と縁の深い神社仏閣には、この本拠地の太秦寺、そして松尾神社、伏見稲荷神社があります。

どれも式内社として崇敬はされていますが、公式に「国家的祭祀」はされていないのです。

各神社で秦氏は代々神職を継いでいます。
しかし松尾神社、伏見稲荷神社は祭神が秦氏の氏神を祀っているわけではないことも関係しているとも言われています。


日本人は最低でも3回は渡来人に革命侵略されて血族が入れ替わっている

こうして流れをたどると、実のところ日本人は、
縄文人に渡来人が弥生時代で稲作伝えた時、
物部vs蘇我の大化の改新以降に権威誇示のために建国神話として誇張して記録を残した時、
明治維新で薩長の田臥が倒幕した時(今に至る)

・・で最低でも3回ほど大陸の渡来人同士で争って革命侵略されて血族が入れ替わっています。

弥生時代~飛鳥時代を経て、

物部氏(反仏教、ヤマト政権)vs 蘇我氏(仏教、天皇中心)、

天智天皇 vs 蘇我入鹿、

となりました。

南北朝時代に元号が2つに分かれたことも、日本国内で華僑vs反華僑で争っていたからです。

大化の改新で、物部系の天智天皇(中大兄皇子)と中臣鎌足(藤原鎌足)が蘇我系の蘇我入鹿(聖徳太子)を倒して古事記や日本書紀で自分ら天皇を神話化して権威づけたのです。

この時点でどちらも大陸人(華僑)の血の争いがありました。

わざわざ最初の元号に中国の漢文を使おうとするところからもご察しなのです。

先に来た渡来人と後から来た渡来人、
物部氏と蘇我氏、
神道と仏教、
南朝と北朝、
尊皇攘夷と公武合体まで、
混在はしますが大雑把に分けて知ると日本史は血族で二転三転しながら争っていたのだとよく分かります

ちなみに大きく見れば本能寺の変も縮図です。

織田信長は、古代氏族・忌部氏=物部氏+秦氏なので、明智光秀と同じ土岐一族の長宗我部氏(古代氏族・秦氏)を倒しに四国攻めしろ言われたら「また同族殺しやないか」と言う背景があったのです。

このように古代日本からの対立で日本史を読み解くと、日本史のなぜ?が読み解けていきます。

過去記事
令和改元から学ぶ日本の大陸との戦いの歴史~純日本人とは?~