数字を使うのが「算数」、数字を使わないのが「数学」~仏教を関数式で解く~

心理学・精神医学

過去の記事では経済学と数学、そして近代科学と仏教までのことを書いた。

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今回は関数式と仏教について書く。

数字を使うのが「算数」、数字を使わないのが「数学」

1+1=2という式だって、正確に言えば1(+1)=2という関数式y=f(x)ということは知られていない。

小学校でも中学校でも習わない。一生習わない。

いきなりy=ax+bの数学の1次関数式から習ってしまうので、それまでの算数と繋がってくるとイメージできない。

だから世界的水準のリベラル・アーツの学問体系から遅れる。

算数には数字が登場するが、数学は論理学と同じなので数字は登場しないのである。

因縁の関係性の観察が仏教の本質

仏教における龍樹の空=縁起という式でも「空が縁起」を作るのか、「縁起が空」を作るのかで同じこと言えそうである。

この空=縁起の式について、

これ自体がy=f(x)である。

数学の
y=原像(定義域)、f=写像(関数)、x=像(値域)

原像(定義域)=写像(関数)(像(値域))

この因縁の関係性(写像:関数)の観察が仏教の本質である。

関数式に梵我一如を代入する

梵我一如(※)だとすると
(※)「ブラフマン(梵)=宇宙の原理」と「アートマン(我)=個人」が同一であるという思想。ウパニシャッド哲学。後にバラモン思想の主流となるヴェーダーンタ思想の根本になる。

原像がブラフマン(梵)、像がアートマン(我)となる。

ブラフマン(梵)=写像(関数)アートマン(我)

釈迦の教によると我は「空」なのでこの式は真ではない。
やはり釈迦の言うとおりである。

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