歴史研究にて。かねてより登山したかった岐阜県川辺町の米田富士(愛宕山・米田城址)へ。
歴史探訪でフィールドワークしながら頭の中で歴史の再構成がされる瞬間が一番楽しい。

標高268m。山麓に本城、山頂に物見やぐら程度の支城があったとされる。

スポンサーリンク

登山道入り口。

概略の歴史

築城は永正二年(1505年)で、初代城主は土岐氏庶流の肥田小軌軌吉であり、玄蕃允軌休の父に当たる。
築城以前にもすでに小規模の城塞はあったと思考される。
室町時代には美濃守護職土岐政房が後継者問題の内紛から一時この城に移住したとの記述もある。

南北朝時代には足利尊氏の重臣の高師直が飛騨方面から侵入、
戦国時代には飛騨一国を統一した三木一族がこの地方を統一した。
天正十年(1582年)六月に金山城主森長可の急襲にあって落城し、肥田一族は加治田城(富加町)に逃れ、廃城となった。
肥田玄蕃の長男長寿丸は米田合戦の折に、馬串山(美濃加茂市)にあって米田城の急変を聞き、救援に赴いたが、比久見地内にて戦死した。
『現地説明板』より。

岐阜県川辺町には福島という地名がある。武将の福島正則の由来らしい。
福島氏も次の肥田氏も米田富士を本拠としたため。
江戸時代初期の古文書「美濃国諸旧記」より「加茂郡福島の城主は福島左近監政清 政清の二男 興右衛門政家といふ 大永(1521〜27)の頃 尾州に至り2つ寺に住す 其子 新左衛門政元 其子 市松正則なり」。2つ寺は愛知県あま市の福島正則の生誕地。
この米田富士(愛宕山・米田城)にいた政家は二男。
愛知県愛西市の勝幡城主の織田信秀(信長の父)に仕えていた。

道祖神から分かる天保・弘化の大火災

米田富士(愛宕山・米田城)の登山道入口の道祖神。背中に「弘化3年」と掘ってあった。
「弘化」は、天保の後、嘉永の前。1845年から1848年のたった3年だけの暦である。
天保もそうだが「江戸大火災」による改元である。
厄災は天(天皇)の運周りと考えられていたため、運を良くしようとに何度か元号を変えている時期。

弘化になってからも江戸の火事は続いたため三年で改元している。
ちなみにこの時期、ヨーロッパでも1848年革命と呼ばれ革命運動が各国で起こっていた。

米田富士の山頂にある愛宕神社は「火伏せの神」とも信仰されている。当時、火事が多くて信奉者も多かったのだろう。

加茂=賀茂神社。岐阜県「加茂郡」の由来。

岐阜県川辺町の米田富士(愛宕山・米田城)の登山道途中にある加茂神社。

祭神は加茂芳雷神。
創立は天暦(947-956)。
本社は山城国賀茂神社の分霊を祭るゆえに此の山を加茂山と称する。
のみならず口碑によれば賀茂郡の名称もこれにより起こると伝う。
天正3年(1575年)に肥田[玄蕃允軌(げんばちかみち) 休 長寿丸]の葺替(ふきか)えの棟札あり、古来より米田郷村で修繕をなて村社とする。
大正9年夏に全勝して同10年12月に再建している。
旧社殿は切妻高床式で縦横とも二間五尺四方の祭文殿の中に本殿を造営したる珍しき建築なり。
なお、現在の拝殿は江戸時代の創建と推定される。
平成13年2月 氏子総代
(案内板より)

賀茂神社とは陰陽師の賀茂氏の神社

賀茂神社は、京都市北区にある賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)。通称・上賀茂神社(かみがもじんじゃ)の略称。

もとは日本神話の祭神、平安時代からの陰陽師の家系である賀茂氏の氏神。
賀茂氏(かもうじ、加茂氏/鴨氏/加毛氏)は、賀茂(加茂・鴨・加毛)を氏の名とする氏族。
天神系、地祠系、備前鴨系の三氏族がいる。
この一つである鴨(賀茂=加茂)。 賀茂氏の始祖の賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと、かもたけつのみのみこと)は、日本神話に登場する神。鴨建角身命とも呼ぶ。

賀茂神社と愛宕神社は根っこは同じ

この賀茂建角身命には建玉依比古命(たけたまよりひこのみこと)と建玉依比売命(建玉依姫命、たけたまよりひめのみこと)の2柱の御子神がいる。
建玉依比古命は後に賀茂県主となる。
建玉依比売命は、丹塗矢に化身した火雷神(ほのいかづちのかみ=愛宕=火の神カグツチもその一つ)である。

大雑把にいえば、賀茂神社=愛宕神社は「火の神カグツチ」で根っこは同じだ。

米田富士の山頂には「愛宕神社」が祀ってある。
それ故に「愛宕山」と呼ばれている。米田富士は地元の通称。

米田富士には、賀茂神社と愛宕神社が同時に祀られている。

愛宕神社も火の神のカグツチ。火伏せの神として防火の神でもある。

察するにここまで火の神カグツチ=賀茂(加茂、鴨)も戦国武将も拠点として守り続けてきたのだ。

米田富士(米田城址)の歴史考察

米田富士の麓(ふもと)は為岡遺跡(ためおかいせき)の集落跡に代表されるように、縄文時代、弥生時代、古墳時代の土器も多く出土している。地方豪族がいたことは間違いない。

米田富士は、当初は古神道の修験道としての霊山として火の神カグツチ(愛宕神社)が山頂にあり、あとから山の中腹に賀茂神社を作っている。

高師直、土岐政房、三木一族、肥田一族(肥田長寿丸。肥田氏の80年ほどは米田城として機能させる)、福島政家(福島正則の福島一族)
…と続いていく。

特に土岐政房は、船田合戦で守護職になったが、その後、斎藤氏の力が強まってきた1500〜1517年頃(推定)に米田城へ逃げのびてきたようだ。
時期から考えて何らかの「ツテ」を辿って来ている。

築城は永正二年(1505年)で初代城主は土岐氏庶流の肥田小軌軌吉であったことからも、この時期に米田富士を土岐氏の本格的な城として機能させようとしているのだ。

「室町時代以前からも小規模の城塞はあった」とのことから、高氏や土岐氏が米田富士を砦として機能させていたことが伺える。

これには米田富士周辺の寺院が参考になる。

米田富士の東にある正宗寺との関係

米田富士(愛宕山)の臨済宗妙心寺派の北には妙楽寺があり、東には臨済宗妙心寺派の正宗寺がある。

特に正宗寺は高師泰の「古城跡」として明記されている。

「新撰美濃志」の加茂郡上飯田村の条には、
「「古城跡」は比久見堺ノ山にありて高師泰(こうのもろやす)の城といひ伝ふ。城跡は比久見の妙楽寺の境地にかかりたれど全く飯田の地なり。」
とある。
比久見とは、岐阜県川辺町の米田富士(愛宕山)の麓(ふもと)一帯の地域のことを指す。

妙楽寺側は福島、正宗寺側は飯田(という地名で呼ばれている。
「飯田」はその名の通り田んぼが多い地域である(上飯田・下飯田と区別されている)。
加えて「中屋敷」という米地主がいたであろう屋敷の地名もそのまま残っている。全国共通で「屋敷」とつく地名は地主がいた場所である。

臨済宗妙心寺派によれば、正宗寺は本派の主流の景川宗隆(けいせんそうりゅう:1425~1500年)より嗣法した西浦宗粛(さいほうそうしゅく:大徳寺第五十五世:1450年代頃~1490年代頃)が開山であるとしている。

「曹源山・正宗寺」と呼ばれているが、臨済宗妙心寺派になる以前は天台宗であり「天源山・正宗寺」と呼ばれていた。
正宗寺寺伝によると鎌倉時代末期に蘭渓道隆の弟子の林叟特瓊(りんそうとくけい:鎌倉建長寺派:?~1321)が創建したとある。

もともと天台宗の寺であり、高師泰(?~1351)の城となり、林叟特瓊が創建して鎌倉建長寺派の寺にして、その後に西浦宗粛が臨済宗妙心寺派の寺にしている。

いずれにしろ当時の日本の最高峰の高僧を輩出しており、土岐一族がスポンサーとなって出資していた裏がある。

タイミングが悪く衰退した米田城

土岐政房が米田富士に逃げ延びていた時期が1500年-1517年頃。

この時期は本当にタイミングが悪い。

1500年時点では、正宗寺の景川宗隆も、弟子の西浦宗粛もすでに死んでおり、正宗寺は西浦の法弟の景堂玄訥(けいどうげんとつ)齢34歳が住んでいるだけの留守寺になっている。
師匠の景川宗隆より先に、弟子の西浦宗粛は亡くなっているので、若弟子の景堂玄訥は跡継ぎに困ったはずである。

実際、正宗寺から景堂玄訥が一時的に去り、28年間も留守寺となる。
景堂玄訥は永正4~6年(1506~1508)まで妙心寺へ住山。その後、犬山市の瑞泉寺にて入寺。
景堂玄訥は土岐政房(63歳)が死んだ永正16年(1519年)にも忌香語を残している(頌文雑句 四45丁)ことから、景堂玄訥と土岐政房は懇意であったことが伺える。

景堂玄訥は、最終的には享禄2年(1528年)に新築された正宗寺に住職として招かれる。

景川宗隆(1425-1500)と西浦宗粛(1450年代頃~1490年代頃)の死んで留守寺であった時期は、1500年からの斎藤氏の力が強まっていた時期と重なる。
土岐政房が米田城に逃げてきたのはタイミングが悪かった。

正宗寺が留守寺になっていること(1500~1528)、
継ぐはずだった景堂玄訥が妙心寺・瑞泉寺へ出てしまっていること(1506~1508)、
そして次に話に登場するのは20年後。「新築された正宗寺」(1528年)とあることから、
おそらくこの時期に廃寺化したか、あるいは戦や災害に巻き込まれたことを察する。
(景堂の寺を転々とする行動も、衰退していく土岐氏から逃げようとする動きさえ感じる。)

1505年に米田城を築城しているので、その後に城として機能させる予定はあったのだが、正宗寺の力も弱まったので後ろ盾がなく衰退しているのだ。

実質の米田城の最後の城主は肥田忠政(?~1582)。
織田信長が美濃を征した時に臣下になるが、
本能寺の変で信長が没すると東美濃に勢力を伸ばそうとする。しかし森長可(森蘭丸の兄)が強すぎて逆に攻め込まれる。その後の肥田忠政の消息は不明。

登山の効能

愛宕山米田富士の中腹からの遠望。川辺町と美濃加茂市がよく見える。

愛宕山米田富士登頂。標高268m。距離2kmほど。かかった時間およそ30分。社会見学やハイキングにちょうどいいだろう。11年程前にも歴史探訪で連れられて登頂した経験はあった。
登山は久々だった。

人間の重要な要素に自分よりすごいものに畏敬の念を感じるというのがある。これをスピリチュアリティともいう。
それは親や教師や上司あるいは特定の宗教の神でもない。
自分よりすごい、広大な自然、宇宙のこと。
登山は登頂を通じて全身運動して、登頂した達成感として体感して自分が小さい存在であり、抱えることが小さい問題だったと気づく効果がある。
大きくて太いものが信仰対象になる原始的本能(動物的本能)は別にしても、登山効果により頑張った自分への達成感から来る自信と、見える景色への畏敬の念が繋がって霊山のように信仰心に芽生える効果があるのは確かである。

防火=火の神カグツチ=愛宕神社=賀茂神社

360°カメラにて遠望。画像ver(マウスのクリックやスマホのフリックで動きます)

動画ver(マウスのクリックやスマホのフリックで動きます)

使用したカメラ

愛宕山米田富士山頂にて。享保18年(1734年)に矢島良元という人が寄進した灯籠。徳川吉宗の時代。
享保も享保大火に代表されるように火事が多かった。享保9年には大阪、享保15年には京都で大規模火災が起こっている。享保17年には江戸で享保大飢饉。
登山道付近の弘化に作られた道祖神もそうだが、火事が流行ると何かが寄進されている。
火の神カグツチ=愛宕神社=賀茂神社なので防火信仰が流行ったのだろう。

そして下山する。
360°登山→下山
動画ver(マウスのクリックやスマホのフリックで動きます)

首が落ちて草が生え込み現代アートみたいになったお稲荷様。米田富士にて。

参道。神社の前と言ったらこの苔のむした柔らかい道がたまらない。

愛宕山米田富士登山道入口。桜の木がゲートみたいになっていて雰囲気が良かった。趣深い。

ネモフィラとオオイヌノフグリ。春のこのコントラストが良い。

わりと本日のベストショットだと思った一枚。