京都府の難病のALS(筋萎縮性側索硬化症)の女性患者に薬物を投与し殺害した事件を聞いてがっかりしました。
事件の概要
ALS(筋萎縮性側索硬化症)の女性患者に薬物を投与し殺害したとして、逮捕された大久保愉一(42)と山本直樹(43)の両容疑者。2人は犯罪死と疑われずに高齢者を殺害する方法を紹介する電子書籍を出版したり、ツイッター上で安楽死について肯定的な持論を展開するなどしていた。
(続き)
同じ病院で勤務する同僚だった2人は以前、「扱いに困った高齢者を『枯らす』技術」という電子書籍を出版。ウェブ上に掲載されているあらすじには「証拠を残さず、老人を消せる方法がある。医療に紛れて人を死なせることだ」「違和感のない病死を演出できれば警察の出る幕はないし、犯罪かどうかを見抜けないこともある。荼毘(だび)に付されれば完全犯罪だ」などと記されていた。ALS女性死亡 逮捕の医師はツイッターで安楽死肯定 2020.7.24 00:22産経WEST
https://www.sankei.com/west/news/200724/wst2007240010-n1.html
この事例を安楽死や尊厳死のテーマにしてはいけません。
なぜなら実行した医師二人が、議論にすらならないほど安楽死や尊厳死への知識が低すぎるからです。
あまりにも浅すぎる安楽死や尊厳死への理解
「きっと、患者に ” 殺してくれ… ” と言われ、悩んだけど泣く泣く実行に移したのだろう…。」
私は当初、ニュースを聞きかじった程度で思っていました。
しかしそんな綺麗事などなく、医師の方が積極的に安楽死や尊厳死を肯定して実行していました。
医療従事者としてこの知識の浅さにがっかりしました。
「死の自己決定権の議論」や、森鴎外の小説「高瀬舟」のような話の末の出来事かと思いきや、
そんな論理思考も持ち合わせていない、単に高齢者や病人を間引きしたいIQ低い医師だったのです。
議論以前の問題でした。
はっきり言えば
これは障害者支援施設で利用者を殺害した「相模原事件」と動機の程度が同じです。
相模原事件と発想が同じ
この事件は「尊厳死」や「安楽死」のテーマにすら乗らないほどの論理です。
なぜなら医師の行動の動機が「間引こう」という「破滅的な死」が前提になっていて、「生きよう」「折り合いをつけよう」とさせる「建設的な動機」がないからです。
そもそも尊厳死は、担当で治療している主治医が決断するが大前提です。犯人は主治医ではないです。なので、むしろこれは相模原事件と構造が近いです。
生命倫理や死生学を専門とする安藤泰至・鳥取大医学部准教授(59)は、「治療を担当してもいない患者を殺すのは、安楽死ではない」と述べ、今回の事件を安楽死の是非についての議論に結びつけることに懸念を示す。
ALS嘱託殺人 「安楽死」論議と結びつけるべきではない 安藤泰至・鳥取大医学部准教授 毎日新聞2020年7月26日
https://mainichi.jp/articles/20200725/k00/00m/040/156000c
例えるなら、
サッカーの試合中に、ファンでも観客でも何でもない部外者が乱入して選手を殺したとします。
その事件に対して「サッカーのルールの改正の議論をしよう」とか「ファンだったから相手チームを殺したんだね。熱い思いがあったんだよ。しょうがない。」というようなものです。
そもそも単純な殺人事件であって、サッカーのルールは関係なく、ファンでも観客でも何でもない部外者なので、チームのファン云々も関係ないからです。
サッカーのルールの議論にすら上がることがおかしいのです。
この事件を安楽死の自己決定権の議論と結びつけるのはあまりに的外れなのです。
日本の借金1000兆円というウソを信じてしまった相模原障害者施設殺傷事件
優生学ですらない
ALS嘱託殺人事件で、医師は「優生学者だ」とか「優生思想だ」とも言われていました。
しかしこの事例は、その優生思想のスタートラインにも立っていません。
人種や血統の保護の話が出てきていないからです。
相模原障害者殺人事件の場合、犯人はネット右翼だったので「日本民族こそが。日本を救おう。」という論理があったわけですが、この事例の場合はそれすらありません。
この医師を、優生学・優性思想の実践者と言うと学問への理解が浅すぎます。
優生思想どころか尊厳死や死の自己決定権の議論のスタートラインにも立っていないからです。
高齢者や病人や障がい者等の弱者を迫害する人を、大それたように優生学者とは言いません。
単なる差別主義者やレイシストと呼びます。
個人的に、
自分の破滅的な嗜虐性を優生学とかっこつけて言い換えたり、
ニヒリズムや唯物論を唱えてるのに共産主義の知識なかったりする人を見ると、
「(中身がスッカスカすぎる。どうして先人の本で勉強しなかったんですか…。)」という、インプットよりプライドの方が先立ってしまった背景が分かるもどかしさの方が先にきます。
どんな罪になるのか
人の嘱託を受けてその人を殺害する嘱託殺人罪、人の承諾を得てその人を殺害する承諾殺人罪(同意殺人罪)などに該当します。
患者も希望していることから後者になります。
同意殺人罪のうち、被害者の積極的な依頼を受けてその人を殺した場合に嘱託殺人罪になります。
被害者の同意があるならば違法性減少事由により殺人罪よりも刑は軽くなります。
しかしそもそも医師の担当の患者ではないのです。
安楽死や尊厳死の根幹は「どこまでの権利を認めるか?」
安楽死や尊厳死の根幹は「どこまでの権利を認めるか?」になります。
まともに「死にたい」という人を殺すと自殺幇助(ほうじょ)になってしまうからです。
安楽死と尊厳死の違い
前提として「安楽死」は社会的なものです。すべて自分一人では不可能です。医師の裁量によります。
耐え難い肉体的苦痛、死期が迫っていて避けられない、手段がない、患者の明示の意思表明。
これらが前提にあります。
「尊厳死」は、「安楽死の中で消極的なもの」です。
消極的なものとは、「延命治療の防止」のことです。
今では「終末期医療」とも呼ばれます。(※1)
鎮痛剤による間接的なものとされます。
延命治療の防止以外で、積極的に死に至らせるの積極的な安楽死をしている国はオランダとベルギーくらいです。
必ず「自己所有権」の議論になる
安楽死や尊厳死の根幹は「どこまでの権利を認めるか?」に行き着きます。
必ず「自己所有権」の議論になります。
生命の所有権の議論の大枠は、
ざっくりいうと自分を「生存権」(憲法25条)と「財産権」(憲法29条)のどちらを重んじるかの議論になります。
すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する生きる権利の生存権として考えるか、
財産権の中心に所有権があるので、所有権は土地や建物や財産だけでなく「自分の身体にも自己所有権がある」とする財産権として考えるか。
「生存権」重視派(左派)と、「財産権」重視派(右派)の2つです。
古い古典派(クラシック)の立場では自己所有権を重んじ、近代のリベラルの立場では生存権を重んじます。
例えば、「死にたいのだから死んでもいいだろ!個人の自由だ!」という意見があったとします。
財産権の立場からすれば、「自分の身体も財産なので処分するのも自由」です。
生存権の立場からすれば、「死にたいと思い至るまでに社会的の構造によって基本的人権が侵害されている」と考えます。すべて国民は生きる権利があるからです。
まず生存権の立場では、自殺や安楽死・尊厳死は基本的に反対です。
生きて生存していることが大前提なので当たり前です。
多くの自殺は、個人の自由な意思や選択の結果ではなく、このような構造的な要因を背景に、解雇、過労などの労働問題、多重債務、生活保護などの生活問題、DV、虐待などの家庭問題、いじめなどの学校問題などが複合的に重なり、心理的に追い込まれ、自らの自由意思で適切な行動を選択することができなくなった結果である。
その意味で、多くの自殺は、自己決定権、そして、生きる権利という究極の基本的人権が、社会の構造的要因によって侵害されている、強いられた死だといえる。
したがって、自殺対策としては、構造的な要因を除去、改善するための実効的な対策を講ずることが緊急の課題である。日本弁護士連合会 強いられた死のない社会をめざし、実効性のある自殺防止対策を求める決議
https://www.nichibenren.or.jp/document/civil_liberties/year/2012/2012_2.html
近代以降は「死にたいと思うには理由があったはずだ」「生きる権利が侵害されているから自殺したいとなっている」と「生きる権利」を大前提で考えます。
しかし財産権・所有権の立場で、自殺や安楽死・尊厳死において「身体所有を死の自己決定」まで結びつけてもいいのか?
これが「死の自己決定権」の議論です。
例えば、
野に咲く花をイメージしてみてください。花が寿命以外で枯れていたら、根っこの土や日当たりに問題があったと考えます。これが生存権の考え方です。
対して財産権(所有権)では自分で枯れようが自由だろう、と主張しますが、建前の花が枯れても根っこや周りの環境の部分は無視されている欠点があります。
自己決定権の範囲が拡大されすぎている問題
「死にたいのだから死んでもいいだろ!個人の自由だ!」という財産権で身体所有を重んじる意見は一定の理解はされるかもしれません。
しかし問題は、現在はその「死の自己決定権」さえも危ぶまれていることにあります。
終末期医療では、自分で死を選ぶ権利さえも「家族”ら”」まで拡大されてしまい、他人が死を決めたのに「自己所有で自己決定したのだ。自己責任だ。」と追いやっています。
死の自己決定権のゆくえ 尊厳死・「無益な治療」論・臓器移植
2018年から死を選択する代理決定が、家族でなくても、患者でなくても、病気でなくていいことになっています。
極端な話、
ケガで病院に行った→安楽死しましょう
や、
ある日突然「あなたは今日、死ななければなりません」と言いに来る可能性すらあります。
なぜか?と聞くと、あなた以外の誰かが、あなたが病気でもないけど、死ぬ必要があると決定したから。となります。
「これは安楽死なのであなたが自己決定したことです。」と事後処理されるのです。
「死にたいのだから死んでもいい!」「苦しいから死にたい」と言って死を自己決定する以前の問題なのです。
この現状を知らないで、「死の自己決定権が大切!」と主張してしまうととんでもないことになります。
「私の命はいつ誰に殺されてもいい!それは私が自己決定したこと!」という「他人に自分の命を奪われても良い」という意見と同じになってしまうからです。
例えば、この事件を「安楽死だ!」と言ってしまうと、この事件を起こした医師が「日本国民全員を安楽死させよう」と言っていたとしたら、それが合法的になってしまう可能性があります。
そしてあなたも含めて日本国民は全員「他人に殺された」のに「みんな個々人が自分で決めて、自己決定したこと。」と事後処理されてしまうのです。
なぜALS嘱託殺人を安楽死や尊厳死の話と一緒にしてしまうとまずいかと言うと、すでに尊厳死の定義が拡大されすぎているからです。
安楽死や尊厳死を肯定している一部の人の頭の悪さ
私は安楽死や尊厳死の死の自己決定権も一つの選択としては、あっていいと思います。
しかし
ALSなど難病の人に対して「どうして自殺しなかったの」と、明らかに難病がどういう病気か知らない意見を見たり、
「俺は強いんだぞ-」「俺TUEEE」という証明として他人に安楽死しろ、と推奨してる人を見ると、
彼らのような頭の悪い人たちの肩を持つようで立場を変えたくなります。
実際に国は安楽死や尊厳死の「死の意思決定」の範囲を拡大しています。
本人だけではなく、家族その他にも広げています。(※1)
なんで国がこんなふうに「死の自己決定権」の範囲を拡大させているかといえば、長期医療を受ける人が減れば、医療費抑制に繋がるので、病気で長生きはしてほしくないからです。
(※1)
本人の意思に潜む罠 「尊厳死」を再考する 東大新聞オンライン 2019年7月26日
https://www.todaishimbun.org/dignitydeath20190726/
(参考)
安楽死と自己決定権
https://www.soka.ac.jp/files/ja/20170525_113040.pdf
終末期における自己決定権に関する覚書
https://www.jstage.jst.go.jp/article/takahogaku/36/0/36_25/_pdf/-char/ja