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「血液型性格診断は非科学的で危険だ!」よく聞く言葉である。

実際にそうである。

A型は几帳面、B型は自己中、O型は大雑把、AB型は変わり者・・と言った感じだ。
だいたいはB型の人が自己中と言われて怒っている場合が多い。

血液型性格診断は心理学でバーナム効果といって「誰にでも当てはまる」のである。

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現実には、几帳面なO型もいるし、自己中なAB型もいる、大雑把なA型もいる。

例えば、あなたが血液型が何型であったにしても
「あなたは几帳面なところもありますが、わりと大雑把で自己中心的な面もあります。」
と言われるとどうでしょうか?

「あぁその通りだ」と感じるでしょう。

全部当てはまっているからです。

人の性格はミラーボールのように同じ球体の中にいろんな性格を合わせ持っているのです。

ただ私が気になるのは、

「血液型性格診断は危険だ!」のあとに
「そんな非科学を信じるのは文系の人だ!」
「このエセ科学!この疑似科学!」いう人だ。

ナチスの選民思想か。

この発言は、血液型性格診断以上に非科学的なことを言っているのだが、
本人にその自覚がないのが怖い。

ただ言いたいことは分かる。

多くの実験とサンプルと結果の再現性を繰り返す「帰納法(きのうほう)」を重視するのが理系だとすれば、
血液型性格診断のように最初から答えを決めてかかってくる「演繹法(えんえきほう)」な傾向が文系なのだと言いたいのだろう。

よく会社で理科系の出身者が統計マーケティングして「このやり方なら成功する!」と実験的にやろうとしても、
文系の上司が「それは前例がないから無理」とか「失敗して私の面目がどうなるか」とせっかくの計画を取り潰す様子はよくある。

「あいつは文系出身だから、実験再現性とかわからないんだ。」と言いたくなる気持ちは分かる。

「演繹法」は中世から「宗教的」と言われてきた歴史がある。

「最初から答えが決まっている」というのは「神の言う通りに無条件で従え」という世界だ。

数学はこの方法に属する。

このやり方が気に食わなくなって起こったのが中世以降の宗教革命。
マルティン・ルター。
ピューリタンによるプロテスタンティズムだった。

のちに資本主義の原動力とも言われる。

プロテスタンティズムがおこる前、つまり中世の頃は数学絶対の世界。

「神様が絶対」の世界だった。
語尾に「~と神様が言ってる」と言えば、何でも許される時代だった。
中世の貴族や僧侶はそれを利用して、威張り続け、国民をいじめ続けた。

この「神(数学)が絶対」の演繹法の世界観に対して、

いよいよ怒りが爆発した国民から
「人間こそ自由なのだ」と理科(今の社会科学・自然科学)が起こった。

しかし神様を全否定することは、数学で言うと「点」の定義を失うことになる。

「点」を失うとは、この世の存在そのものの全否定、人間の存在否定にもつながってしまう。

なので数学(神)の要素をギリギリ残しながら、
「sci=語源は神、essence(エッセンス)=流れ出たもの、派生」
ということでscience(サイエンス:学問)が発展していった。

だから今でも無神論者は、「点」を否定し「存在」を否定する。
つまり共産主義者かテロリストとみなされる。


(皮肉な言い方をすると「無」への信仰だ。昔は「絶対無」があるとされていたが、
とうの昔に真空でも素粒子は発生するのが証明され、絶対無など存在しないことは科学的に周知されている)

欧米の学会で、
そんなこともしらない日本の教授が「私は無神論者です」と言って、
場が凍りついたり退席者が相次いだことは数え切れないほどある。

神様の「絶対有」の存在論を信じるキリスト教前提の欧米人の前で、
「私は共産主義者です」「私はテロリストです」なんて言ったのと同意義。
引かれてしまうのが必定だ。

日本人は、この国際基準の「リベラル・アーツでの分け方」を知らないので、
いつまでたっても世界的に学問で劣ることになってしまう。

日本は最初の分け方から間違っているのだ。

「人類の起源と発祥はすべて韓国にあり!」と韓国人が外国で言ってしまって面食らうのと同じだ。

「文系理系という分け方だ!」と言うのはそれに匹敵するくらいトンチンカンなことだ。

反論されて火病(ファビョン:その国の独自文化が否定されると発作的にヒステリーになる精神疾患)になっていては恥ずかしすぎる。

社会科学系、自然科学系の分け方は理科(サイエンス=学問)の中であるかもしれないが、
同じ「理科(サイエンス)」だ。

文系理系、まして文科系、理数系なんて分け方はべらぼうに間違っている。

なのに、自分は理系だと誇示してる人に限って理系性格判断は信じる傾向がある気がする。

それこそ「演繹的」「宗教的」という。

理科を神様にしてしまっている。

もうめちゃくちゃだ。

理科(自然科学・社会科学)は「人」の世界。
「神の不在証明」が目的だ。

逆に数学は「神」の世界。
「神の存在証明」が目的だ。

真反対なのだ。

大学でも
「University:ユニバーシティ」と「College:カレッジ」があるのと同じ。

アメリカの最高学府のアイビーリーグでも工学系はない。
工学系などの技術系(奴隷の学問)だから。
ユニバーシティを名乗ることが、リベラル・アーツ(自由人の学問)をやっている証拠になる。

アメリカのハーバード大学とライバル意識を持つマサチューセッツ工科大学と比較すると分かりやすい。

絶対にハーバード大学は、
MITやスイス連邦工科大学やコペンハーゲン工科学校などの工科大学に対し、
「University(ユニバーシティ:総合大学)」と言わせない。
工学専門は奴隷だから。

同じ「大学」と名乗っているが、

「University(ユニバーシティ:総合大学)」とは「宇宙、普遍(Universe)」が語源。
宇宙すべての神の存在証明。
「神」の世界だ。

対して、
「College(カレッジ:教育機関)」というのは、「仲間 (colleague) の集まり」が語源。
「人」の世界だ。

日本では、東京大学でも名古屋大学でも京都大学でも「University」と名乗っているが、

欧米人が日本の大学来たら腰を抜かす。

どこがユニバースやねんと。
どこがリベラルアーツやねんと。

「理科系がすごい」と名乗っている時点で、
「私は奴隷でーす」と「奴隷の首輪自慢」にしか聞こえない。

文系だろうが理系だろうが、
自然科学(生物学、化学、物理学、理学等)だろうが、
社会科学(経済学、社会学、教育学等)だろうが、
法学だろうが、医学だろうが、音楽だろうが、

自由(リベラル)に学べるのが、リベラル・アーツだ。

学部学科を固定して他の講義が受けれない時点でおかしいのだ。

理系文系と分けている時点でおかしいのだ。

別に「CollegeがUniversityより劣る」と言いたいわけではない。
むしろ私は「人」の世界の方が好きだ。

問題なのは、
日本人が知らずにやってしまっていること。
そのせいで外国で評価されないこと。
バ力にされていること。
評価されなければ投資もされないので日本の研究が発展しないこと。
日本独自の文科系理数系の分け方のせいで、日本独自で優劣の差別意識ができてしまっていることだ。

「科学こそ絶対」という人が、いかに矛盾しておかしなことを言っているか、そこを理解しなければならない。

リベラルアーツまとめ~正しい学問体系を知ろう~
https://libpsy.com/liberalarts/4109/

まず前提の分け方から日本独自で間違っている。

それ以上に選択肢が2つしかない「二分法思考」がヤバい。

精神病と相関の高い「優劣の分け方」が二者択一でモロに出ている。