カウンセラーなんて必要ないと言える人は健常~カウンセリングの矛盾~

心理学・精神医学

カウンセラーはいなくなればいい。
医者はいなくなればいい。
警察はいなくなればいい。

その通りです。

なぜその通りなのか?

職業が必要ない=問題がないということ

カウンセラーがいなくなるということは、心の問題がこの世からなくなったということ。
医者がいなくなるということは、病気がこの世からなくなったということ。
警察がいなくなるということは、犯罪がこの世からなくなったということ。
…だからです。

ただカウンセラーの場合、症状が目に見えて分かりにくいです。
ケガをして血を出していれば、あっケガしている!病院へ!となりますが、心の病気は目に見えて分かりません。

なので健康な人から見ると、何事もなさそうにみえるので「カウンセラーなんて必要ない」と言えるのです。

逆を言えば、そういう人はとても健常であると言えます。

病んでる人はマイナスの状態。健常な人はゼロ以上だから分からない

健常な人の心は0より落ちた経験がありません。

しかし精神的に病んでしまうと0より落ちてマイナスになります。

健常な人にとって「マイナスは存在しない」と思っているので、経験のない限り他人の気持ちが分からないのです。

0以下の人たちにとっては、「カウンセラーは必要」と感じることができます。

カウンセリングと名乗らないほうが良い

下手に「カウンセリングします」「カウンセラーです」と名乗ってカウンセリングをやるのは止めたほうがいいです。

なぜなら「態度が決められる」からです。

カウンセラーやクライエントにとって「態度が決められる」とは、自然な会話をしたいのに、カウンセラーとクライエントと立場が決められてしまい、

クライエントはカウンセラーに「治ることを期待」させてしまうからです。

治したくないわけではないのですが、期待が入るとノイズのように自然な会話になりません。

例えば、傾聴のきっかけとして「疑問」をクライエントに投げかけます。
その場合、立場があると体裁になってしまうのです。

店で「いらっしゃいませ」と言われるような形式文になってしまって、お互いに良好な関係性が作れません。

「疑問」は「疑問」にしておきたいのです。

「聞いても大丈夫ですか?」という疑問を聞きにくくなってしまいます。

私自身、一応はカウンセラーとして名乗っていますが、体裁上で私自身もこの矛盾はどうしようもありません。

「いたわりのフリ」がノイズになる

心理学者のロジャーズの態度として、共感的理解、無条件の肯定的関心、自己一致があります。

共感的理解は、相手の立場で相手の気持で共感すること。

無条件の肯定的関心は、相手の話を善悪や、好き嫌いの評価せずに聴く。

否定せず「なぜそのように考えるようになったのか」をその背景に肯定的な関心を持って聴く。

自己一致は、真摯的な態度で接すること。

話の真意を確認して、分からないことも分からないままにせずになぜなのか聞いていくこと。

この態度として、「興味:いたわり」を「50:50」にすると丁度いいのです。

しかし最初から「治ることを期待される」と、間に「いたわりのフリ」が入るので、「下世話な興味」になってしまうのです。

役割が決まってしまうことが、「いたわりのフリ」というノイズになります。

「当たり」をつけていくのではなく「質問は刻む」こと

カウンセリング技法として「質問を刻む」ということがあります。

例えば、怒鳴られて離人するクライエントがいたとします。

いきなり「怒鳴ってくる人は母親と似ているのだね。」とか「当たり」をつけてはいけません。

本人が自分の力でその結論にたどり着けたと思えないからです。

どんな声で?
過去にそんな人がいたの?

と何度かの質問を繰り返して、そうして母親と似ていると本人が気付くまでにたどり着くのです。

セルフモニタリングがないと整理できなくなる

カウンセラーはスーパーバイスという「カウンセラーのカウンセリング」を受けます。

セルフモニタリングがないと頭の中で整理できなくなるからです。

それは連想が進んでいくために、自分も脳内がばらばらになるからです。

視点を取り込みに行くというもう一つ外の視点が必要になります。

うまいスーパーバイザーだと、

そう感じたのは不思議だね?
こういう可能性もあるのでは?

「当たり」をつけず、自問自答する視点の大切さを教えてくれます。

優れたカウンセラーは「効果があったか、なかったか分からない人」

例えば典型的ですが「~先生のおかげで良くなりました!」という人は良くなっていません。

なぜなら「内在化」に失敗しているからです。

「内在化」とは、「外界を内に取り込むこと」です。
例えば、最初に自転車に乗る時に、誰かに後ろで支えてもらいながら乗ります。
気付いたら後ろで支えてもらえなくても乗れています。
無意識に自転車に乗れるようになっている。後ろで支えてもらえているという安心感を、自分に取り込む。

これが「内在化」です。

「~先生のおかげで良くなりました」というのは、本来ならそんなことを言わなくても良いのです。

補助なしで自転車に乗れるようになるくらい当たり前のことを「~のおかげで」とは言いません。

なぜ言うかと言うと、カウンセラーが立場に依存させてしまって、クライエントのエンパワメント(潜在的な力)で自立して立ち上がる能力を奪っているからです。

優れたカウンセラーは、クライエントをマイナスから0に戻しているので、クライエントにとっては「効果があったか、なかったか分からない」のです。

本人が気づかないほど自然に「内在化」させているのです。

「何か良くなった気がする」「また暇があったら会いたいな」程度の効果を与えるのが、優れたカウンセラーです。

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