一知って百知ったつもりになる自己愛

心理学・精神医学

自己愛過剰社会

「百様を知って一様を知らず」という、ことわざがあります。

「博識であるが、肝心なことを知らない」という意味です。

しかし、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害)にとっては、

「一様を知って百様を知る」になってしまいます。

つまり「一知って百知ったつもりになる」ということです。

そもそも自己愛性人格障害にとって「知る」なんて謙虚な態度はおこがましく、私だけは生れ出てから「天上天下唯我独尊なり」。

乳幼児期から生まれながらにして全知全能だと本気で思い込んでいるのです。

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ナルシシストは,自分はなんでも知っていると思いたがる。これを心理学者は「オーバークレーミング」と呼ぶ。「なんでも知っている」という友人に「ビリー・ストレイホーンのジャズを聴いたことはある?」とか,「パウル・クレーの絵を知っている?」「ベルサイユ条約が調印されたのはいつか知っている?」とたずねると,「もちろん」と答える。そこで次はこんなふうに聞いてみたくなるかもしれない。「ミルトン・シラスのジャズを聴いたことはある?」「ジョン・コーマットの絵を知っている?」「モンティチェロ条約が調印されたのはいつか知っている?」。じつを言うとこれらはどれも実在しないのに,その友人は「もちろん」と答えるのだ。これがオーバークレーミングである。ある調査では150問中30問が嘘の問いだったが,知ったかぶりでは誰もナルシシストにかなわなかった。頭がよすぎて存在しないことまで知っているのだろう。
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ジーン・M・ドゥエンギ/W・キース・キャンベル (2011). 自己愛過剰社会 河出書房新社 pp.57
(Twenge, J. M., & Campbell, W. K. (2009). The Narcissism Epidemic: Living in the Age of Entitlement. New York: Free Press.)

自我が肥大化しすぎてインフレーションを起こしているために、過去の体験が盛大に神聖化され、武勇伝として解釈されます。

過去の体験を良く解釈するのは悪いことではないのですが、自己愛の場合、誇大妄想というウソの解釈により、事実と違うという点で抑圧を伴っているので、必ずそこに人格障害や精神病特有の二分法思考と他者軽視が生まれ既存の認識のみの固執でスキーマが欠乏し、一気に現実検討能力の低下、IQが低下が起こり、周囲との軋轢や摩擦が生じて問題を起こします。)

なので「生得の智(せいとくのち)」を重視します。

これを古典心理学では「 nature 」(ネイチャー)と言います。

「自然」の意味の他にも、「生まれついての特徴」という意味です。

これを「 nativism 」という言い方にすると「固有主義、生来主義」(人は先天的に全て決まる)。
これを保守(古典)主義=自然法とも言います。

対する言葉は「 nurture 」(ナーチャー)は「養育」。

これは「育ち方で決まる」「環境、周囲との関係性などの育ち方で決まる」ということです。

人の行動で決まるので「 behaviorism 」 (ビヘイビアリズム)という言い方にすると「行動主義 、教育改良主義」(人は後天的に環境で改善する)。
これを(現代)リベラル=人権派とも言います。

この「nature vs nurture」「先天か vs 後天か」「遺伝か vs 環境か」「保守(右翼) vs 左翼(リベラル)」「自然法 vs 人権」

・・という対立は、心理学だけでなく、法学・医学・音楽・哲学・物理学、近代科学(自然科学・社会科学)において共通です。

特に自己愛性パーソナリティ障害が好む「遺伝で全てが決まる。オレこそが人類進化頂点の人間だ。周りはそれ以下。」という妄想があります。

この「ナンデモ遺伝子万能論」は、

どちらかと言うとこれは近代科学(自然科学・社会科学)よりも、神学の予定説です。

「遺伝子も宿命であり、全て神様が決定しているんだ」「遺伝子こそ全てなんだ」という有神論を重んじるキリスト教プロテスタントのカルヴァン派の系譜の科学者に人気がありました。

なぜかこの宗教思想を、日本では無神論な唯物論者が唱える傾向があるという大矛盾した意味不明な事態になっています。

もし神の存在を否定するなら、(神様の創造した)「遺伝こそ全て」(nature)ではなく、「人が決めている」(nurture)という、「環境」(人との関係性が育ちに影響があるという)を重んじなければなりません。

今では100%(10:0)の先天的な遺伝子の優生学を唱える研究者は少なく、6:4や、3:7など割合で「遺伝と環境」の話を捉える人が大半だと思います。

常にこれらの論争は決着がついたわけではなく、テロメアやサーチュイン遺伝子の話題などに代表されるように否定されたり、肯定されたりがアメリカのサイエンス誌やネーチャー誌で繰り返されています。

そもそも「絶対こうなる」と決着がついたらそれは科学ではなく宗教です。新規性と更新性こそが科学であり、人の発展の歴史なのです。

自己愛性パーソナリティ障害のような「誇大自己」からくる「オーバークレーミング」(自分は何でも知っている)には、この神のように「絶対」という「nature:固有主義、生来主義」が伴います。

それは、まさに自分こそ神の代弁者だと言って聖書を片手に支配していた中世の貴族・僧侶のようです。

歴史が証明しているように、そのような支配は、「自由」(リベラリズム、ここでは近代左翼ではなく、古典的自由主義という意味で)による「人間」の革命によって、いとも簡単に崩れ落ちてしまうのです。

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