科学と魔術のことについて書いていたら「とある」のシリーズについて質問を受け、実際に視聴してみた考証を書きます。
「とあるシリーズ」とは「とある科学の超電磁砲」と「とある魔術の禁書目録」の科学と魔術との2つから設定をアプローチした鎌池和馬の人気ノベル作品です。
〈ストーリー〉
超能力が科学によって解明された世界。能力開発をカリキュラムに組み込む巨大な学園都市では、能力者はその能力によってレベル0からレベル5の6段階
に分けられている。その街に住む高校生・上条当麻はなんの力ももたないレベル0だったが、そんな彼のもとに純白のシスターが現れた。彼女はインデックスと名乗り、魔術師に追われていると言う。
科学と魔術が交差するとき、物語は始まる――。
唯物論←→観念論で、二分法思考をして、どちらかに偏狭してしまいがちな若い人も多い中で、あのような科学と魔術が混ざり合うストーリーはいいと思います。
この作品の中では「科学vs魔術(神の力の奇蹟)」という世界です。
「神学(数学)vs 科学&魔術」と書くと、少し極論な感じになってしまうのですがこれは歴史と倫理を紐解くと「なるほど」という感じに落ち着きます。
近代学問(自然科学・社会科学)と神学(数学)の論理を表すような図があるとイメージしやすいので少し口頭で書きます。
ピラミッドの三角形を想像して頂いて、一番下の層に神学(数学=論理=矛盾なき論理)の「基礎」となる層があります。
数ある情報を「統合」して「上に積み上げていく」のを『構造』と言いますが、
三角形の一番頂点に点、つまり「神」(絶対真理・普遍)を置くのが「神学(数学)」です。
対して、三角形の一番頂点を「仮」(人間の予想)としたのが「近代科学(自然科学・社会科学)」です。
つまり、基盤には両方とも「神学(数学)」があるのですが、最終的にたどり着く三角形の頂点の「ゴール」が違います。
そのゴール(証明すべきこと)を『神』としたのが中世以前の神学。
『人』(仮説、証明はできないが予測)としたのが中世以降の近代科学(基礎理論は神学)です。
小室直樹氏の著書で言うと神と「タテの契約」だけだったのが、神と人同士で「ヨコの契約」も増えたというやつですね。
※この図と照らし合わせながら考えるといいかもしれません↓
私たちは科学のなかからしか真理をうかがうことはできないの図
https://t.co/eAZZEdod
参考文献:戸田山和久「科学的思考」のレッスン―学校で教えてくれないサイエンス (NHK出版新書)
https://t.co/nmfJEjSV
中世の宗教改革(フランス革命など)の前までは、それまでは「神学」の時代で、聖書に書いてあること以外のことが「魔術」と呼ばれて「魔女狩り」されて徹底的に弾圧されていました。
欲望、お金もうけ、スピリチュアル的なこと、占い、加持祈祷…カトリック以外は全て弾圧されてました。
ゴール(ピラミッドの頂点)が全て「神」(証明されること、絶対真理・普遍)であったわけです。
その神を聖書を片手に語る「僧侶」が権力を持ち、「貴族」と組んで民衆を圧制で痛めつけていたわけですね。
それ以降の、カルヴァンの予定説→ルター→プロテスタンティズムの精神→資本主義→近代科学・目的合理性の時代に移るわけですが、急に前の「神学」が全否定されて出てきたわけではなく、それを「基盤」にして「ゴール」を「神」ではなく、「仮」にすることで、契約が上からだけでなく、「人同士」でも可能になって広がりを見せたわけです。
このように論理の歴史と、宗教の歴史を並行して見ていくと、
「科学vs魔術」ではなく、
『神学(数学)vs近代科学・魔術』と分けると正しいわけです。
厳密に書くと「神学(数学)のみ vs (神学(数学)を基盤にした)近代科学・魔術」。
「中世以前の vs 近代以降の」、
「タテの契約 vs タテの契約+ヨコの契約」、
「カトリック vs プロテスタント」、
「ゴールが真理 vs ゴールは仮説」
…いろいろな整理の分け方がしっくりきます。
「科学vs魔術」にしてしまうと、「唯物論vs観念論」みたいなアジア特有の道教的な分け方しかできず、まるで中世から近代の革命の歴史、カトリックもプロテスタントも分かれた経緯が全く不明のままになってしまいます。
なのでおそらく、「とある」を外国人がみると、バトルアクションやストーリーとしてはとても面白い思うのですが、敬虔なクリスチャンや宗教者だと、「科学vs魔術」の分け方で「?」となると思います。
この2つはプロテスタント(あるいはユダヤ教)寄りですが、どちらも元の系譜がカトリックに弾圧された仲間です。
ちなみに今の最新の認知科学では、科学と魔術、理系や文系なんて古すぎるワケ方はしないで西洋と東洋を統合した構図で思考するようになっています。