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贖罪論から無償の愛に繋がるのは、「人は罪深い」とするそれまでの旧約聖書の前提があったのに、イエスキリストがその罪の肩代わりをして自らが磔(はりつけ)て「自己犠牲」(=無償の愛)したという「特殊命題」(反例)を作ったとことが大きかったです。

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だから今でもそのありがたさを広めるためにキリスト教では「人は罪深い」と言って、イエスキリストのありがたみを説くわけですが、中世あたりでは腐りきっていたのは小室直樹氏の指摘の通りです。

目的合理の精神は、宗教改革以後に、強烈な予定説によって出てきたものです。

「目的」とは「神から人へ」の契約の神のタテだけでなく、人同士のヨコの広がりで、
「合理」とは早い話が、「2つのものを秤(はかり)に乗せ、割合や重さを測って、どちらが得か比べること」(均衡)。
つまり、『お金儲け』のことです。
これが「労働」の話にもつながってきます。カルヴァン派・ルター派(予定説)の言うように、労働して、その財産権が国に侵されることなく自由であれば、働けば働くほど労働生産性が増して、お金持ちになって自分が豊かになれるという、今も利用されてるプロテスタントの労働(質素倹約で働きまくれ)の成功哲学ですね。
全プロテスタントだけでなく、福音派、メソジスト派(ニューノート派やペンテコステ派等々)ではロジックだけが強調されて自己啓発にされています。

「合理」は英語でratio、実はこれはreason(理性)と語源が同じで、ラチオ・リーズンの思想(強欲と拝金の思想)と一部で呼ばれたりしています。これも宗教改革以降の「理性絶対主義」、「大陸合理主義」、「自然の摂理(プロビデンス)」などに通じてきます。

禁欲するとカトリック、欲求解禁するとプロテスタント、更に強烈にするとユダヤ教になります。

ユダヤ教より前は、アリストテレス論理学で「平衡(equilibrium:エクリブリズム)」というのがありました。

有か無か、正か誤か、などの二分法的な結論のもので、突き詰めると、お金で人間活動のすべてに釣り合い=均衡を与えるという冷たい思想です。

この論理がその後のユダヤ教の中にratio[ラチオ:理性(=拝金と強欲の思想)]を植え付けました。

なのでキリスト教のプロテスタンティズムは別名、「ユダヤ返り」とも呼ばれていて、行き過ぎると本来の「愛」はどこへやらで、金儲けだけの下品な思想になってしまいますね。

例えば、プロテスタントの中でも神なんてほとんど信じてないくせに社交的な理由だけで教会へ行くアメリカの理科系インテリ教授に御用達の「ユニテリアン派」なんてところもあります。

あるいはその考えに親しいフリーメーソン(プロテスタントの源流ですが)、その更に強力にしたイルミナティなんて、もうゴッドが太陽神ヤハウェじゃなくて、明けの明星ルシファー(悪魔)になってます。

神のロジック(点の存在)を否定すると「無」で共産主義になってしまうので、ギリギリのところにいると思います。