心理学の歴史的変化の図

心理学・精神医学

心理学の歴史的変化の図を書きました。

上ほど「新しい」もので、下ほど「古い」ものです。

新しいものはサンプル数(実験の事例人数)が多く、古いものはサンプル数(実験の事例人数)が少ないです。

下から順に見ていきましょう。

【古典】心理学の時代

・1880~1920年頃です。
・タロット占いや経典や神話や、催眠の一例で心を語っていた時代です。

主にフロイトやユングがいた時代の古典的な心理学の時代です。
当時はまだ心というものがよく分からず、どうやってアプローチしていいか分かりませんでした。
なのでフロイトは夢分析や催眠、口唇期や男根期などの性的欲求や、ヘブライ聖書で説かれる「罪」の3種類を参考にユダヤ教的な無意識・意識の心理構造、
ユングはアニマ・アニムスなどのギリシャ神話やタロット占いなどの占星術で、
心を語ろうとしました。

この時代、投影法というロールシャッハテスト(紙についた絵の具が何に見えるか)やバウムテスト(木を書いてそれを分析)するやり方も生まれました。

1人~3人の個別の事例がほとんどで、個人個人で解釈が異なるので、治療として誰しもに対応できるものではありませんでした。

現代においても心理テストというと、この古典的な時代の占いや催眠をイメージされるのは悲しいことです。

【行動主義】心理学の時代

・1920~1950年頃です。
・入力(刺激)→出力(反応)のみで見ます。
・主に脳がすべてという「唯脳論」で、目に見える行動だけがすべてと言われた時代です。

例えば、「条件付け」という説明がよくされます。
古典的条件付けやオペラント条件付けで、刺激があれば決まった反応があるという実験が繰り返されていました。
「この刺激をしたら、こうなるに決まっている」というものです。「実験的再現性」と呼びます。

ベルで餌をもらっていた犬が、餌がなくてもベルだけでヨダレを出すようになったパブロフの犬の実験。
レバーを押したら報酬がもらえるので、レバーを押すことを学習したネズミの実験が代表的です。

スキナー、ハル、トールマン等が、系統で有名です。
犬がエサを貰える反応で唾液を出すとか、ネズミがエサのレバーを引いて学習したとか、それを「人間」に当てはめました。人間を科学的に操作しようとしたのです。

これを行動主義哲学(behaviorism)といいます。

電気信号で言うとOFFは0、ONは1という二進法の世界です。

しかし入力(刺激)→出力(反応)のみでは必ずしも説明できないことが出てきました。

「刺激と反応」だけの行動主義が終わった「猿の期待実験」

1920~1950年にかけて、共産主義と並行して行動主義は世界でブームでした。共産主義は、一神教的な経済の均衡を目指す資本主義に対して、徹底的に科学的な「唯物論」の立場を取るので、行動主義と相性が良かったのです。

ではなぜ消えてしまったのか?

それは1928年のティンクルポーの「猿が期待してブチ切れた実験」は、行動主義への反例として大きいです。
この実験は、
2つのカップ、片方にバナナ。当てれば報酬のバナナがもらえる。
というものでした。

しかし途中で報酬を「レタス」にしました。
すると猿がキレて怒った!・・というものです。

ティンクルポーの実験は、
当時の行動主義なら、刺激(入力)→反応(出力)だけなので、
猿のエサ報酬がバナナだろうがレタスだろうが同じ反応でなければならないのです。
しかし、猿はレタスで怒り、バナナという「期待」を学習した、のです。

これはのちに「認知主義」と呼ばれるようになります。

現代人なら「個人差や環境もあるから全部同じ反応はあり得ない。」と考えれば分かります。

しかし例えば、行動主義なら刺激と反応だけなので、
学校で先生が「生徒が全員、東大に入る教育」をすれば、全員に同じ刺激を受けて、学習し、全員同じ反応で東大に入る、ということが起こらないとおかしいのです。

行動主義の時代は本気でそうなる、それが科学的だと信じられていました。

その行動主義で少ないサンプル数で結論づけていた時代から「じゃあ数を多くすれば良いのではないか」という流れで出てきたのが「統計分析」という方法論です。

【認知】心理学の時代

ティンクルポーのサルの実験は1928年ですが、認知主義として注目されたのは1960年代頃から主に始まりました。認知ルネサンスと呼ばれる時代です。

・入力(刺激)→内部表現(特徴量)→出力(反応)で見ます。
・統計学の手法を用いて信頼性と妥当性の検証をします。
・脳と心は相互関係で、抽象性が高いか低いかで関係していると考えます。

背景として記号言語学の発展が大きいです。
電気でOFFは0、ONは1という刺激→反応の二進法だけだったのが、八進法、十六進法と表記できるようになりました。
プログラミング言語で人の心を記述できるようになりました。

要するにコンピューターも発展と並行しています。

行動主義の「入力→出力」というプロセスの間に、

認知主義の「入力→内部関数(特徴量)→出力」というプロセスが、加わることになりました。

今までの行動主義の「実験的再現性」のもと今まで2~3人程度だったのが、100~200人とサンプル数を増やして統計的な信頼性と妥当性を上げていくようになりました。

「質問紙」と呼ばれる単なるアンケートとは違う、操作的に実験的再現性を意図した尺度が作られました。

「8割の人が同じように答えた」と「確率」で有意であると数が多ければ多いほど良しとして統計では見ます。

同時に言語記述の「論理的整合性」が重視されました。

今では「機械学習モデル」と呼ばれます。
機械学習が登場する以前(統計以前)は、人間が、経験を踏まえて推論ルールを作成していました。

内部表現(特徴量)という機械学習を間に取り込むことで、「統計的機械学習」という、より精度の高い実験的な推論が可能になりました。

ディープラーニング(deep learning:深層学習)という、多層のニューラルネットワーク(ディープニューラルネットワーク:deep neural network:DNN)による機械学習手法もここで使われます。

「心」と「脳」の関係

これに伴って、心と脳の関係も考え方が変わりました。

行動主義の時代まで「心」はふわっとした概念的なもので「目に見えないから存在しない」と科学的に捨象(しゃそう)されて外されて考えられていました。

しかし例えば、私たちは「レモン」の実物を見せられれば、条件付けでヨダレが出ます。
だけど「レモン」の実物がなくても、頭で「レモン」を想像してヨダレが出せます。
目に見えてないけど、どうやってこんな反応が起こるのか?と考えると、「心」がレモンを作り出して、「脳」に反応を与えていることになります。

「心と脳は別物」ではありません。

心は脳の抽象性(抽象度)が高い上位概念、脳は心の抽象性(抽象度)が低い下位概念、として考えられるようになりました。

脳でドーパミン系の異常が起これば精神病になって心が病みますし、仕事や学校の心のストレスで脳のドーパミン系の異常が起こることもあります。

脳が心に影響を及ぼすこともあれば、心が脳に影響を及ぼすこともあります。

お互いは相互関係として見ていくようになりました。

1950年代で止まっている日本の心理学

まだ日本は2020年代においても、心理学は良くて「統計の手法」までで止まっています。

世界よりも教育が70年以上遅れているのです。

日本の心理学部・心理学科では、1950年までの「古典心理学」「行動主義心理学」を大学4年間で教えます。
これでは心理学ではなく「心理歴史学」です。
SPSSやR言語の「統計手法」まで使った人がどれだけいるでしょうか。

文部科学省が大学の教育カリキュラムを決めているので「昔話のまま更新されない」のです。

世界において本来は、心理学部が理学部に付属しています。

しかし日本は古典文学から抜け出せないので教育学部や文学部に心理学科として付属しているのです。

機械学習等のコンピュータを扱う系統は情報学部がやっていて、情報学部の方が認知心理学の研究が進んでいます。
しかし情報学部では心理統計学的な手法が教えられないことが多いです。

「理数系vs文科系」という悪しき洗脳

しかも日本には「理数系vs文科系」という「目に見えるもの研究 vs 目に見えないもの研究」という悪しき洗脳がされています。

そこに1950年代からの共産主義の唯物論ブームと、「先輩の研究の通りにやりましょう」という年功序列が乗っかって、「目に見える理科系の科学が絶対」という理数系という宗教になっています。

残念なことに、日本は(リベラルアーツでないこともあって)認知主義のムーブメントは来ていないのです。

いまだに、科学者は俗に言う理科系ほど唯物論で、「無自覚な共産主義者」になっています。

1950年代の「実験で絶対こうなる」という行動主義(共産主義的な唯物論・唯脳論)から抜け出せず、それ以降の「確率でこうなる」という次の段階へいけていないのです。

日本の大学では、俗に言う理数系にいけばいくほど、左翼の、共産主義=唯物論のブームの頃の教授がたくさん増えていくので、

未だに行動主義だの、唯物論だのが至高だと教えてくれます。

前近代で思考停止している現状なのです。

せいぜいサンプル数を増やした統計的判断が限界ラインです。

行動主義は古い洗脳法

かつて中国共産党や旧ソ連で、徹底的な共産思想の洗脳が行われました。

その方法論は、当然マルクス(共産左翼)の唯物論的な行動主義です。

刺激と反応だけの世界。
エサを見せたら唾液を出す、叩いたら従う、少ないサンプルなのに科学的と言う「束縛と強制」の洗脳です。

未だにこれを信奉する日本人も多すぎるのは、教育が発展していないからです。


宗教的な洗脳でも、

「山奥に隔離→何度も繰り返す(お経)→苦行(テスト)で達成感を得させる→布教」
という方法を取ります。
反復させることで行動が強化されるからです。

今の日本の学校教育も、
「学校に隔離→何度も繰り返す→テストで達成感→他人に勧めて自己肯定」という
という全く同じ方法を取ります。

この60~70年代から行動主義(唯物論)として共産思想で利用されてきましたが、今でも変わっていないのです。

行動主義と認知主義の融和したムーブメントは、まだ日本に来てもないし、根付いてもいません。

どうしても世界学問のリベラルアーツでなく文科系・理数系という国際的に間違った学問体系の分け方の認識だからです。

科学は不完全帰納法であるという大前提を忘れてはいけない

科学は不完全帰納法です。それが大前提なので「絶対」ということはありえません。

「カラスは黒い」という全称命題の証明は無理です。
帰納法で世界中のカラスを調べ尽くしても、「白いカラス」が一匹でもいたり、少しでも灰色のカラスがいたらそれは例外の特称命題になります。

理科で完全な帰納法はありえません。なので不完全帰納法が大前提となっているのが科学です。
(これに対して、完全帰納法で証明できるのは数学=神学だけです。)

不完全の大前提があるからこそ、「仮説」を立てて情報を「更新」「上書き保存」できる良さがあるのが科学(自然科学・社会科学)です。

日本の心理学は行動主義的な教授が多数ですが、その根拠すら統計学であり、不完全帰納法(実験的再現性は無理だった)であることも、観測問題(不完全性定理で観察時に結果は変わる)も無視して突き進んでいる現状なのです。

まず心理学が脱出しなければならないのは、
1:行動主義(同じ出力したら、全て同じ結果になるという誤解)、
2:統計学(たくさんサンプルを取ったところで、実は不完全帰納法にすぎないということ)です。

心理臨床系の先生にはいい人が多いが、行動主義時代で止まってる人は性格が悪い

日本の心理学には「臨床系」と「非臨床系」があります。

「臨床系」では、事例をもとにカウンセリングを重視します。臨床心理士や公認心理師が臨床系です。
「非臨床系」は、臨床の根拠となるデータを分析します。統計を主に使います。

(ちなみに私は非臨床系です。)

心理学系の教授には良い人が多いです。

正確に言うと、「臨床」系で発達心理や犯罪心理などでカウンセリングの心得えや病院など現場を知っている人は優しくて話しやすいです。

しかし「非臨床系」で認知科学で行動主義を重んじる人は、科学者的で唯物論者で競争意識や劣等感が強く性格が神経症的で悪いです。

知覚心理学実験で有名な、矢印の錯視や、婦人と老婆や壺のだまし絵を見せて「どうです?すごいでしょう?」と結論付けるだけ。
「認知は人によって違う」というゲシュタルト的な一水四見の唯識的な説明まで付け加えられた教授は未だかつて出会ったことがありません。

行動主義時代で止まっている人だと、
例えば、
子どもが泣いている→一発殴った(刺激)→泣き止んだ(反応)=科学的に子どもを殴るのは正しい!
という体罰容認する発想を持ちます。

刺激の間に、子どもがどんな感情で泣いていたか、殴られてどうだったか、なぜ泣いていたかの、
「内部表現」の考察が何一つなく、その個人体験談の事例一つですべてを語ろうとするからです。

だから日本は前近代の行動主義の唯物論から抜けれないのです。

古典文学の心理学の時代(ユングやフロイトの頃:科学発展が追いついてなくて文学から概念的に解釈)
→行動主義心理学の時代(スキナーの頃:唯物論的な客観的観察から数で妥当性を求める統計へ。日本は今ここ)
→認知心理学の時代(ゲシュタルトの頃:人の認識はそれぞれ違う。関数表記。世界は今ここ)

この大きな歴史的変化を意識して研究していかなければ、心理学の新たな発展はありません。

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