川崎市で19人児童無差別殺傷した岩崎隆一(51)と、 練馬区の住宅で44歳の息子を殺人した熊澤英昭(76)の事件は表裏一体です。
前者は外務省官僚が殺され、後者は農水省官僚が殺したという点。
それに加えて、両者とも「社会的孤立」という問題の苗床が同じなのです。
マスコミの扇動では、当初、川崎市事件の時点でB層ウケしやすい「ひきこもり叩き」をしようとしました。
しかしその翌週に、社会の代表者たる官僚公務員トップの事務次官様が「ひきこもりの息子を殺す」という事件が起こりました。
それまで川崎市の事件を受けて「やはり引きこもりは殺人する危ない!叩こう!」「死ぬなら一人で死ね」とやってた人が、殺人したのです。
「ひきこもり叩きする人=殺人容認する人」ということが明らかになってしまいました。
はっきりいうと、ひきこもり叩きの勢いで息子を殺してしまう熊澤英昭(76)のような殺人者が、 川崎市で19人児童無差別殺傷した岩崎隆一(51)のような殺人者を生んでいます。
この背景には攻撃的に追い詰めて社会的に孤立させる環境があるのです。
ここまで分かりやすいストレス構造が、短期間で目に見えて証明されてしまいました。
アノミー状態に陥らせる社会的孤立
社会学者エミール・デュルケームは、自殺論の中で
「人は社会や家族や仲間友人などとの帰属意識がなくなるとアノミー(無連帯・無秩序)状態になる。すると自殺するか殺人するかの二者択一を迫られる。」
と言いました。
アノミーへと追いやった元凶があるということです。
その元凶が社会的孤立です。
単純に個人の責任問題ではなく、社会の問題として考えていかなければ「臭いものにフタ」で何の解決にもなりません。
学者の小室直樹氏は「右翼は特定の人物を必殺する。左翼は無差別に殺人する。」と書いていました。
実際、官僚のような全体主義で保守的な人が「社会でこうあるべき」という古臭い体制で子を殺人し、子はその抑圧を社会に対して破裂させるので無差別殺人する。逆もまた然り。
練馬区の官僚の親と、川崎市の無差別殺人の子がまさにそれです。
帰属意識からの希薄から来るアノミーを防ぐには、家族や学校や会社、あるいは知人や友人などの周辺環境に「共感してくれる人」が一人でもいれば救われます。
例えば、昭和は家庭内暴力があっても、祖父母の家に逃げられたり、友人の家に逃げられたりできました。
どんな理不尽で、理屈の通ってなかったとしても、本人が悪いとしても、共感してくれる仲間が一人でもいました。
しかし今はその環境がありません。
攻撃されたストレスは、他人に共感されることもなく自分に鬱積して、もがき苦しみながら感情を抑えて耐えて耐えて爆発の時を待ってしまうのです。
社会的孤立した場合、容易にアノミー状態へとなってしまうのです。
社会的孤立した弱者に置き換えて考えるとおかしさが分かる
殺人したのがひきこもりでなくても、社会的に孤立を強いられた社会的弱者、女性、病人、高齢者、子ども、障がい者、チビハゲデブブサイク…何にだってに置き換えて考えるとおかしさがわかります。
やってる人は、レッテル貼りで叩けて「あー嫌なもの叩けてすっきり」と思うかもしれません。
しかし実はその思想そのものが、殺人者そのものの思想だったというのが今回の練馬区と川崎市の話なのです。
例えば、過去に女性専用車両導入のきっかけとなった大阪の御堂筋事件というのがあります。
仮に、DVで女性差別する男が「女性差別ばんざーい!」「そうだ女が悪い!」と周りも一緒になって叩いていたとします。
その勢いで殺してしまうのです。周りも困惑です。
ここまで「女性」が悪いことは何一つないのです。
今回の川崎市20人殺傷事件と練馬区の息子殺害事件の関係も同じ。
同じように考えれば、
「ひきこもりだから殺人したんだ」とか、「ひきこもりだから殺されたんだ」は必要条件ではありますが十分条件ではないのです。
原因の一つではあるかもしれないが、結果を証明するものではないのです。
科学は、複数の独立変数(原因)と従属変数(結果)の帰納法で成り立ちます。
決めつけから入るのは神の演繹法。宗教の論理です。
社会的孤立をしたくてしているわけではない
男性、女性、病人、高齢者、子ども、障がい者、無職、貧困、介護、ひきこもりでも、別になりたくてなっているわけではありません。
例えば、増税すれば可処分所得が減って貧困になります。
それで経済が落ちこむので、雇用が渋られ自然と無職やひきこもりにもなって社会的孤立します。病気や障害にもつながります。
現金と税金は水と油の関係~増税すればするほど経済が回らない~
このように結果には、大きな種を巻いた原因があるのです。
悪者を決めて片方を叩くと、片方の論理が破綻する
川崎市の19人児童無差別殺傷事件と、練馬区の官僚息子殺人事件。
短期間で目に見えて起こった事件でテーゼとアンチテーゼの関係です。
悪者を決めて片方を叩くと、片方の論理が破綻する。
表裏一体の関係。
必ずワンセットで考えなければなりません。
排除の論理が排除の論理を作り出す
テリー伊藤の言葉はいつになく真剣なものだった。
(テリー伊藤)
「今回の(『死ぬなら一人で・・・』という)意見って、”排除の論理”ですよ」(落合陽一)
「これとこれで争っているのは本当におかしくて、まずはこういう人をどうやったら孤独から救うかを対比しなきゃいけないのに、ここで論争しているのは本当にナンセンス」(太田光)
「この犯人の場合は自分も死ぬわけじゃないですか。自分の命もたいして重く見てないというか、自分が思っているような自分じゃなかったんだと思うんだよ。それって『俺って生きていてもしょうがないな』と」ハフィントンポスト 太田光が自ら語った「ネットでなくてテレビだからこそ伝えられること」~川崎20人殺傷事件について~ 2019年6月3日付
https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_5cf46f9ae4b0e346ce803a55
まったくもってそのとおりだと感じました。
ここまで短期間に、排除論者が、排除論者になる瞬間を目の当たりにしたので。
コメンテーターといえども、川崎市で引きこもり叩きしようとしていたが、振り揚げた手を下げなければならなかったのです。
案の定、川崎市の無差別事件を受けて、同じ境遇の息子を殺していた件
熊沢英昭容疑者(76)が、調べに「川崎市の児童殺傷事件が頭に浮かんだ。(死亡した長男が)他人に危害を加えてはいけないと思った」
元農水次官、川崎殺傷念頭に「長男も危害加えるかも」2019年6月3日付 日経新聞
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO45601890T00C19A6CC0000/
熊沢氏容疑者は、元農林水産省の事務次官。
実質の公務員官僚のトップである。東大出しか普通はなれません。
そんな社会の代表者たるようなキャリア官僚が、自分から危害を加えて殺しているという。
エリートとしてあるまじき愚行です。
優れた人間なら、「自分のひきこもり無職の息子でも生きられる世の中に」という発想を向けられるはずです。
「社会的に孤立してるから、殺してやろう」という発想はあまりに頭が悪く、貧弱です。
しかし、やはり予想通り、練馬区の息子殺害と、川崎市の児童殺害は関係していたのです。
社会的孤立に対する攻撃的で排他的な発想が、根本の苗床にあったのです。
ひきこもりは2タイプいるので見間違えないように
ひきこもりでも積極的なタイプと消極的なタイプがあります。
社会や学校への反骨精神で積極的に引きこもる「ポジティブな引きこもり」と、
迫害や不安で消極的に引きこもる「ネガティブな引きこもり」の二種類。
この区別なしに十把一絡げで見ると問題の本質を読み間違えます。
ひきこもりは、全国に61万人(政令指定都市レベル)います。
ここまでくるともう問題どころか、存在していて当たり前。社会現象を超えているのです。
大半が就職難や無職や貧困や介護からなりたくないのになっています。
昭和の価値観のように「甘えて」そうなっているわけではなのです。
お金があって引きこもってる人は、過去に親から半殺しにあっている
例えば、お金があるのにひきこもるような重度なひきこもり(練馬区の息子殺害事件もそうだ)だと、過去に親が子を半殺しくらいの勢いで攻撃した体験があるはずです。
自分が受けた排他的な攻撃が強いほど、強く引きこもります。
攻撃が強いほど「穀潰し」として逆に反抗でひきこもろうとします。
北風と太陽の寓話のように、北風を吹かせすぎて、男がコートを着込んで、北風をにらみ続けている状態です。
お金がある環境ほど「いいでちゅよ~、ひきこってていいでちゅよ~」なんて甘えた環境ではないのです。
むしろそれなら本人が自然と外に出ていくので、長期化・問題化は起こらないのでまだマシです。
お金のある人ほど社会的孤立の恐怖で攻撃的になる
お金がある人は、自分のメンツを立てるために世間体を重んじます。
自分の社会的孤立なんてあってはならないと考えるからです。
すると徹底的に、社会的に、世間的な価値観を守ろうとします。
なので半殺しにしてでも、「働け!」「外に出ろ!」と子どもを攻撃して社会に出そうとします。
抽象的な言葉でしか言えないのは、他人のことを考えていないからです。
それはやられた側にとっては「私のためではない。親の威厳を保つため、自慢のアクセサリーでしかないのか。」となります。
それに気づいた子どもは反抗して引きこもり続けて穀潰しするという構図が基本です。
社会的孤立は「明日は我が身」と考えること
無職ひきこもりというと、今回のように若い世代をイメージする人は多いです。
しかしむしろ高齢者の方が自然と無職になって配偶者も知人友人も死んで社会的孤立しているのが現状です。
マスコミは高齢者向けに社会的孤立している若い世代を叩きたいようですが、生老病死を受容している賢い年配の人は「明日は我が身」と自覚できています。