「ごんぎつね」に観る日本人の心理とは?

心理学・精神医学

ごんぎつね

某匿名掲示板やTwitterで「兵十が悪い vs ごんは自業自得」と話題になっていたので、久々にふと小学校の4年生の教科書を開いてみました。

そこで気付いたことは、この「ごんきつね」は日本人の心理を見事に表現しているということです。

主に、
1「空気」
2「甘え」
3「因果」
の3点です。

小学生が書いた「ごんぎつね」の感想で議論勃発 ごんは撃たれて当たり前?-ねとらぼlivedoorNEWS
https://news.livedoor.com/article/detail/7661035/
(引用はじめ)
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多くの子供は「ごんがかわいそう」という感想を持ったようですが、投稿者の姪は「やったことの報いは必ず受けるもの」「こそこそした罪滅ぼしは身勝手で自己満足でしかない、(兵十はごんの反省を知らないのだから)撃たれて当たり前 」とシビアな感想を抱いたようです。この感想が学校で物議を醸しているそうで、スレッド内でも大きな議論に発展しています。
「小学生でそこまで考えられるのは凄い」「撃たれて当たり前って言うと物騒な子だと受け取るかも知れんが、これはこれで筋が通ってる」とこの感想を肯定的に評価する声がある一方、「ごんぎつねが悪いとしてもごんぎつねだって可哀想だろ」「ごんの気持ちも考えるように指導するのが大人」といった意見も。「感想」に対して問題があると指摘すること自体がおかしいという意見も多く出ていました。さまざまな捉え方ができるこの物語、あなたはどう思いますか?
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(引用終わり)

まず「ごんぎつね」の話を端的に整理すると、

主な登場人物
・兵十(男)
・ごん(きつね)

あらすじ(Wikipediaより)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%94%E3%82%93%E7%8B%90#.E3.81.82.E3.82.89.E3.81.99.E3.81.98
(引用はじめ)
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物語は村の茂平からの伝聞という形式になっている。
両親のいない小狐ごんは村へ出てきては悪戯ばかりして村人を困らせていた。ある日ごんは兵十が川で魚を捕っているのを見つけ、兵十が捕った魚やウナギを逃すという悪戯をしてしまう。それから十日ほど後、兵十の母親の葬列を見たごんは、あのとき逃がしたウナギは兵十が病気の母親のために用意していたものだと悟り、後悔する。
母を失った兵十に同情したごんは、ウナギを逃がした償いのつもりで、鰯を盗んで兵十の家に投げ込む。翌日、鰯(イワシ)屋に鰯泥棒と間違われて兵十が殴られていた事を知り、ごんは反省する。それからごんは自分の力で償いをはじめる。しかし兵十は毎日届けられる栗や松茸の意味が判らず、加助の助言で神様のおかげだと思い込むようになってしまう。それを聞いてごんは寂しくなる。

その翌日、ごんが家に忍び込んだ気配に気づいた兵十は、またいたずらに来たのだと思い、ごんを撃ってしまう。兵十がごんに駆け寄ると土間に、栗が固めて置いてあったのが目に留まり、はじめて、栗や松茸がごんの侘びだったことに気づく。

「ごん、おまえ(おまい)だったのか。いつも、栗をくれたのは。」と問いかける兵十に、ごんは目を閉じたままうなずく。兵十の手から火縄銃が落ち、筒口から青い煙が出ているところで物語が終わる。
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(引用終わり)

ここから
1「空気」
2「甘え」
3「因果」
の3点について整理していきます。

1、「空気」について
「空気(ニューマ)」とは、「あらゆる論理や主張を超えて人々を拘束するまことに絶対権をもった怪物」と評論家の山本七平は述べています。
山本七平「空気の研究」

昭和期以前は「その場の雰囲気に流されること」や「その場の空気に左右されること」は「恥」でした。
しかし、戦争を通じて、日本人独特の伝統的発想・心的秩序・体制として色濃くなりました。

 

2、「甘え」について

「甘え」とは、「周りの人に好かれて依存できるようにしたいという、日本人特有の感情」と精神科医・心理学者の土居健郎は定義しています。
土居健郎「甘えの構造」

具体的には「言わなくても分かる」「察せよ」と、自分や他人へ思い込んで欲求することです。
多くの人が勘違いして使ってる「甘えるな!」という意味、つまり「わがままで自分勝手に振る舞うこと」という否定的な意味ではありません。むしろ愛着形成で重要な概念です。

この「空気」と「甘え」について「ごんぎつね」のどこで表れているかというと、ごんが最後まで姿を見せずにイワシや栗や松茸を奉仕し続けているところです。

当然、兵十の母親を間接的にも殺してしまった申しわけなさが動機だったはずですが、兵十が「神様のおかげ」と解釈したことに「寂しくなる」という、「察してくれ」という心理学的な意味での「甘え」がここで発生しています。

また同時に「直接、兵十に正体を見せてはマズい」という後ろめたさからくる「空気」が、ごんの行動を支配しています。

 

3つ目の「因果」について、
因果とは、原因と結果。また、その関係。前に行った善悪の行為が、それに対応した結果となって現れるとする考え。と定義されています。

ここで少し因果の話をする前に2つの解釈の話をします。

「ごんは兵十の母親を間接的にも殺したので、その報いを受けて兵十に殺された」「兵十は何も知らなかったから仕方ない」という一方での解釈があります。
また一方で「ごんは頑張って奉仕したのに可哀想」「兵十は何も分かっちゃいない」という一方での解釈があります。

この両方の立場にたった2つの解釈はとても重要で、

なぜ「ごんぎつね」は小学校の4年生(10歳,11歳)で習うのか?
…ということに繋がります。

この時期に「ごんぎつね」を通して、兵十とごんのどちらが悪いとも言い切れない話を問うのは、先生が子どもの感受性と一緒に少し高度な「自己中心性」もみているからです。

例えば、下は、子どもの空間認知能力の発達を調べるために発達心理学者のピアジェとインヘルダー(Piaget,J. & Inhelder,B.,1948)において用いられた「三ツ山課題」です。

いろんな視点から山を見て、ここから見たら山はどう見れるだろう?こちらからならどう見えるだろう?と問う実験です。

三ツ山課題
ジョージ バターワース,マーガレット ハリス「発達心理学の基本を学ぶ―人間発達の生物学的・文化的基盤」

ピアジェの時代の解釈によると、8歳以下の子供は「自分自身の視点に根差して」おり、自分自身以外の他の視点を想像できないから、自己中心的であると考えられていました。
三ツ山課題で言うと、「自分の今見ている場所」の風景しか答えられず、他の視点から見た山の様子は答えられません。
(他人に「同情」できるかどうかですが、実際に8歳頃までは相手の”気持ち”までは深く汲み取っておらず、自分への「置き換え」による同情モドキのようなことをしています。)

つまり10,11歳に「ごんぎつね」で、兵十とごんの両面の視点から学ぶことは非常に有意義なのです。

さて、話を少し戻すと、多くの人がもつ解釈の中で「ごんは兵十の母親を間接的にも殺したので、その報いを受けて兵十に殺された」という「因果応報」があります。

これも日本人らしい仏教的な考え方で、欧米では理解され難いものがあります。
小室直樹「宗教原論」

仏教の「因果律」と、キリスト教での「予定説」は相反する考え方です。

「予定説」では、神様が宇宙誕生の時点からすでに全てのシナリオを書いており結果は「必然」とされます。
いわば最新のミサイルです。プログラムを入れて発射して、正確に着弾地点が決められています。

逆に「因果律」では、全ては「偶然」とした上で、結果には「原因」があるとします。
いわば大砲の弾です。どこに着弾するかは分かりません。しかし大砲の発射という原因と着弾という結果があります。

例えば、欧米の感覚なら、なぜ、ごんは直接に兵十へ物品をもって謝罪せずに行かなかったのか、コソコソ隠れながらも正体を気にして欲しかったかという理由がわかりません。日本人のように「空気」と「甘え」の感覚が分からないからです。

「アメリカ版のごんぎつね」があったとするなら、ごんはイワシ持って兵十に正面から堂々と謝罪しに行き、それを兵十はベレッタ9mmで撃ち抜いて「お前の死は神に予定されていたことだ」とか言うと思います。

あるいはこの作品を米国人が読んだら、
ごん(動物権・アニマル・ライツを主張する動物愛護的なリベラル左派)が、兵十(銃を米国の自立独立の魂として尊重する伝統保守派)に撃ち殺されて同情を引くというえげつない揶揄の話に見えます。

どちらにしても、「空気」や「甘え」のない感覚だと、ごんの心中なんて知ったことではないので、ごんは神に予定されていた通り死んで当然ということになります。

それに対して、日本では仏教的に「因果応報」ということが分かります。しかし単に「ごんは因果応報だったな」で終わるだけではなく、ごんの身バレできない「空気」と、それでも好意を分かって欲しい「甘え」を同時に共感することが出来るのです。

もう一つ、仏教的な点として、この作品には「欲」が隠されています。

極論すれば、この話の諸悪の根源は「ウナギ」や「イワシ」です。言及すれば「食欲」です。

なぜ兵十やごんも「食欲」で相手を満たそうとしているのでしょうか?

兵十が「孝行」という大人的な崇高な精神で母親にウナギを食べさせようとして、
それを子供的なトリックスターのごんがぶち壊してイワシを奉仕して反省します。

結果的に「欲」がなければ、こんな「空気」や「甘え」に流されるような悲劇は起きなかったという、仏教的な着地点も見えます。

文章内では、生々しいウナギの次に、イワシという匂いのする香ばしい魚を出した時点で、読者の嗅覚的な共感覚のトリガーが刺激され、引き込まれるテクニックも筆者は使っています。

最後に鉄砲の筒から出る「空気」で、刹那の時間のあっけなさと仮の現実との関係性である仏教の「空(くう)」と、流されざるを得なかった「空気」を抽象的な掛詞で見事に表現しています。

よく短文の中にここまで詰め込んだなと関心します。

ある意味、「ごんぎつね」は日本人の心理の完成形のような作品です。

「きつね」という、いかにも日本人の神道(神社)の稲荷信仰を連想するような動物を主人公にしたところから察するに、筆者の新美南吉(にいみ なんきち:1913~1943年,29歳没)は、確信してやっています。生きた時代的にもまさしくそうです。

新美南吉は他の児童文学絵本に「手袋を買いに」という作品があります。こちらも「狐(きつね)」の母と子が人間の街へ手袋を買いに行くという話なのですが、「ごんぎつね」と違って親子の愛着関係を描いた温かみある話です。

ある種、父性的な「ごんぎつね」に対して、「手袋を買いに」は母性的な作品として、新美南吉は描いているのではないでしょうか。

「甘え」と「空気」の心理学


「自立/独立」という名の宗教
https://libpsy.com/independence/847

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