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空の「結ぶ」を書いてきましたが、それに関連して仏教のもう1つの根本論理に「縁」という言葉があります。
専門的には「縁起」「因縁」と呼ばれます。

例えば「自動車に轢(ひ)かれて死んだ」としたら、
「自動車に轢かれなければ死ななかった」。

つまり、

原因C→結果E

原因(cause)から結果(effect)への一方的な因果関係です。
これを単純因果(simple causality)や、線型因果関係(limear causality)と言います。

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しかし仏教の因縁は、この単純因果関係だけではありません。

複数や、間接的な原因からも因果関係が生じるのです。
空のように「縁(よ)って」ということが最大の肝です。

説話では「良い人は極楽へ行き、悪い人は地獄へ行く」と教えていますが、「良い人が地獄へ行くこともある」とか「悪い人が地獄へ行く確立は90%」とかの確率的な話もなく、徹底的に因果律なのです。

仏教は、キリスト教・イスラム教・ユダヤ教とは本質的に違っていて予定説(神が全てのことを最初から決めている)は一切無いのです。

「救われるか、救われないかは仏が自由意志で決める」なんてこともないのです。
仏以前に存在する法(ダンマ)によって決まる、つまり”全て本人次第”によって決まるのです。その決まり方は”因果律”によります。

菩提樹の下で釈迦が悟った十二因縁も構造は単純因果です。

『無明(無知)から行(形成力)が生じ、行から識(心作用)が生じ、識から名色(精神と肉体)が生じ、名色から六入(眼、耳、鼻、舌、身、意の六識)が生じ、六入から触(心と対象が接触すること)が生じ、触から受(感受作用)が生じ、受から愛(愛欲、妄執)が生じ、愛から取(執着)が生じ、有から生(生まれていること)が生じ、生から老死(老いて死ぬこと)が生ずる』というものです。

つまり、
無明(むみょう)→識(しき)→名色(みょうしき)→六入(ろくにゅう)→触(しょく)→受(じゅ)→愛(あい)→取(しゅ)→有(う)→生(しょう)→老死(ろうし)
です。

因は原因、すなわち起源、縁は補助的な役割として考えます。
例えば、植物を生やすために種を蒔いて”因”。これに土や水や栄養や光や空気が”縁”です。

これに対して中観派の「縁起」の解釈はまるで違います。
単純因果関係ではなく、相互依存関係(mutual interaction)です。

つまり、

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こういうことです。
これがナーガールジュナの「空」の構造です。

小乗仏教では「良いことをすれば良い報いがある」「猫を殺せば猫に生まれ変わる」と、原因の後に結果が生起するという時間的な単純因果を意味してきました。
仏以前に存在する法(ダンマ)、つまり因果律が決めるのです。

しかし、中観では、法有(ほうう:法は独立して存在する)は認めません。
存在するものは認めません。無であってもならないのです。

よって論理的相依性(相互依存関係)を説きました。

例えば、「母と子」の例です。(「百論」「大智度論」「菩提行経」など)

自然存在としては母があって、子が生まれる。逆はありえない。

・・が「在り方」として考えれば、そうとはいえない。
母は子を生まないうちは母ではありえない。
子を生むことによって初めて母と言いうる。
このように母と子は互いに相依っている、互いに独立に母と子とを考えることは出来ない。

このように一切の法(ダンマ)は相互依存関係なのです。

縁は、単純因果関係か、相互依存関係以外にはありません。
単純因果関係は、原因が結果になるという一方通行だけのもの。
相互依存関係は、原因が結果になり、結果が原因になるという相互関係です。