7年ぶりに骨になって実家に帰宅した祖母。認知症になって入院して、更にコロナ禍で会えなくなって、衰弱して亡くなるまで長かったなぁ。おかえりなさい。
アルツハイマー認知症の祖母(95)
10年程の介護入院生活で私が学んだこと
○反省点
・身体障害者手帳申請が遅れた(医療費が無料にならない)
・この2年間はコロナ事情で強制個室されたのに病院差額ベッド代を支払う必要ないのに支払い続けてしまった(月20万円)
・入院後は扶養控除メリットが少ないなら、世帯分離して給付金や生活保護を早く検討すべきだった
○良かった点
・高額医療費制度、後期高齢者医療制度、介護保険、要介護申請などはすぐフル活用できた
・デイサービスなどの社会資源に結び付けられた
・入所後は介護用品を個人購入で施設補充にしてネットでオムツ等を安く調達できた
・元気な頃にマイナンバーカードや印鑑登録証を作っておいたので相続後見人が処理が楽だった
・事前に預貯金や保険を整理しておいたので後処理が簡易的になった
・難聴からすぐ認知症になるのは予想できたので、すぐ補聴器をネットで買ってプレゼントできた
・BPSDでの問題行動が多かったので事前に行動予測して不要な情報を与えないなど対策できた
同時期だった父の急変と祖母の死
病院から死亡確認の連絡があったのが朝9:30、寝たきり老衰なら数時間以上前にはある程度、死の四徴候で分かるはずなので、
おそらく夜勤帯で気付かれてはいたが朝に主治医が出勤するまで様子見して朝礼後に家族を呼んだのだろうなと。いずれにしてもコロナ禍で来ても面会できないですが、察しますね。
10日前からの父の急変(前回は2年前に著しくADL墜落した)と、数日前の祖母の死がほぼ同時期。
祖母だったら私に迷惑かけまいと配慮してくれた感じもある。
火葬場
そういえば10年前は喪主で火葬場で火葬のスイッチ押しましたが、今はもう押さなくてもいいのですね。今回は係員が押してました。
死を自覚する上で骨を焼いて直視させるのも凄まじいショックですが、親族同士で箸でつまんで壺に入れるのも中々のつらさがありますね。
火葬場の焼き上がったホカホカの祖母の遺骨の前で、骨の部位を解説してしまい、火葬儀屋から「やけにお詳しいですね」と言われて、
親戚一同がいる手前、変なこと言えず「ぁ…仕事で人体解剖とか、手術やってて…」と事実を答えるしかなく、なんかやばめの人にしか思われなかった。
さすがに親族の死と、親族の急変が同時に来るのはレベル高めなクライシスな今です。
葬式疲れ。悲しむ暇もあまりなく300人ほど立ちながら挨拶しっぱなしで消沈。身体的には痛いのに過集中して眠れないような状態。
死亡届等の書類整理と香典等をエクセルに名前と金額を打ち込み続ける作業。
葬式の主である喪主の初体験は、多くの人は60代頃に両親とも亡くなって、兄弟も亡くなってからですね。
20代で2回も喪主した私はどんだけ家族が死んでるんだという。
父の仏前脱糞の怪奇
パーキンソン病で要介護5でベット上の父親。
実は父は昨晩、急変で痙攣して私を呼びつけるほど危うかったのに、祖母が今朝方に亡くなったと知るやいなやパニック状態(私の母方の祖母なので父はそんなに接点ないはずだが)
「俺が行かないと何も始まらないー!」と暴走して私が「誰も呼んでないよ?」「トイレも行けないが大丈夫?」と抑止するも「這ってでもいくぞー!」と、家族親戚の助けを呼び出し無理矢理に車いすと介助でヘトヘト酸欠状態で祖母の遺体のところまで行くも、
「ぎゃー俺の体が折れるー!助けてー!」「うおおーー!うんこーー!」と親戚の集まる前で盛大に公開の脱糞して退場。
「すべて俺のおかげなんだ」と見栄と手柄だけは横取りしたいので余計な行動をした結果、本当にみっともない姿を親戚にさらした。もうギャグすぎる…。
遺体の前で脱糞した父が「これでかまってもらえる!」「これで他人が操作できる!」と味を占めたのか、親戚中に「俺が葬式の中心だ!みんな!俺は苦しい!介護しろ!」と電話テロしまくり。本人からは接点の少ない家族の葬式に対して、同情を皮切りに横槍入れて操作するのが迷惑行為すぎますね…。
葬式が終わるまでの数日の我慢ですが、周りの人の追悼の気持ちを、自分の介護の苦しみに変換させようとするので、この後処理が大変ですね。
もう父も難病障害者の要介護5寝たきり状態なので大人しくしていてほしいですね。
母方の祖母の周りでしんみりした曲が流れる中で、
葬式とあまり接点のない父の周りでクレヨンしんちゃんの「オラはにんきもの」のテーマソングが流れている。パニック♪パニック♪パニックみんながあーわーててる〜♪(デテレテテテテ)
そんな感覚です。
父の虚勢による公開脱糞という本当にみっともない姿を見て、愛しさと切なさと心強さが同時に来て、複雑な心境で喪に服します。
正直、仏前脱糞は私の想像を超えてきたので、その場は阿鼻地獄でしたが、帰宅してから意味不明すぎて笑いました。ありがとう父。
寝たきり要介護5であまり自分と関係ない人の葬儀に手柄を横取りしようと強引に出席して、ゼーゼーハーハー酸欠しながらクララが立った的な奇跡を見せながら脱糞しても退場するしかないのです。
人間的に評価はできても、社会的には評価されないのです。
遺体の前で脱糞は想定外
さすがに遺体の前で脱糞するのは想定外でした。
一時的に注目賞賛されるかもしれませんが、あまり良いようには受け止められません。
葬儀の席でそういった粗相のないように気をつけたいですね。
社会や災害の問題が大きいほど、心理的に不安定な人は「そんなのはどうでもいい!そんなことより俺を見てくれー!」と注目賞賛の自己承認欲求を強化させるタイプがいます。
しかし技術や顔など上辺ではなく「うんこ」というADL低めな排泄行為での自己承認はかなり心理的に危機だったのだなぁと。
幼稚園児に「うんち」「ちんちん」が馬鹿ウケ大爆笑するのは、みんなが忌避して反応してくれる万能性です。身体性と相まって「俺の持ちネタは体内の汚物しかない」の追い込まれた限界ネタ。
大人になって理性が育った上でやると引かれます。何重にもオブラートに包んで上品に出さなくてはなりません。
葬式よりも俺をかまってくれ
祖母の葬儀に俺を連れてけ連れてけと必死にゼーハー言いながら親戚を使って要介護ベッドから連れ出した結果、
無理に立ち上がって仏前で脱糞して退場した実家の父(そもそも亡くなった祖母は母方なので父は接点少ない)が実家でベッド上で介護モンスターと化して大暴走。
「食べれなーい!動けーん!痛いー!俺を助けてくれー!ぎゃおーーん!」のいつも以上の甘えの絶叫マシン状態。
祖母を弔うどころではない。
赤ちゃんを見ているようで見ていて腹立たしくて情けないです。
要するに、私の祖母の死で周囲の注目がそちらに向いたので、葬式に負けじと辛いアピール。
痛みの気持ちには共感はしますが、その同情で何でもアゴで操作されるかどうかは別なので、医療介護以外の、しょうもない幼児的な欲求を断り続けています。
私が祖母の葬式の喪主で多忙に動いていると、要介護5で在宅寝たきり父がいつも以上の甘え絶叫マシンに。
「うおー俺も死ぬー痛いーうぎゃおー」とウソで呼びつけて準備を中断させてニヤニヤ。
「葬儀のときは俺は病院行くからみんな俺を送迎しろー、でも痛いから家にいるー、でも葬儀も行くからーウギャー痛いー、動けないー!」「みんないないと俺死んじゃうー、みんなで俺にご飯食べさせてー!」と支離滅裂でめちゃくちゃ。
周囲の注目を葬式から自分へ変えようとする。
祖母の葬式の準備どころか父のナースコールとスマホの呼び出しで追悼もできない。いつもの父はこんなにひどくない。
あまりにひどいので見かねた父の兄弟が、明日から代わりに介護して下さると申し出。
私から何度も頭を下げてお礼しました。
頼れるときに頼れる方に頼るのも必要だと学びました。
祖母も父も遠ざかる感じ
母方の祖母が亡くなって初日は普段から要介護ベッド寝たきりの父が「這ってでも行く!」と躍起になっていたので、
「父の実母でもないし、あまり接点ない祖母に父は何か特別な思いがあったのかな…」と思いましたが、
散々、親戚一同をアゴで使って、遺体前で車いすから立ち上がって脱糞して「ぎゃー!痛いー!みんな俺に注目してー!」を見たとき、
「あぁ、微塵も追悼の思いなんてなかったんだな…自分への同情で母方の親戚を利用してアゴで使いたかっただけなんだな…」とよく分かりました。
人間はここまで見苦しくなれるのかと。
寝たきりでも動こうとする行動力だけは評価できましたが、反面教師でこんな人間になりたくないな…と思いました。
祖母の認知症が悪化して砂を噛むような思いで施設入所したときも感じましたが、
中核症状からの行動心理症状(BPSD)があまりに理性のない行動すぎて、家族以前に「人間として遠ざかる感じ」があります。
愛する家族の皮をカブった別の生き物のような違和感。
パーキンソン病が悪化した父にも同じものを感じています。
「こんなに人が余ってるなら俺の部屋掃除させるべきだ」
これが冗談でも何でもなく、本気で自分の部屋の掃除をさせようと、赤の他人の行動スケジュールを勝手に作って指示を出しちゃうのが父なんだなぁ。
みんな、私の母方の祖母のお葬式に集まっているのであって、関係も浅い寝たきり要介護の父の部屋掃除のために集まっているわけではない。
初日の仏前脱糞で、もう通夜からも葬式からも退場させられた父。
以後、思い出の独り言
祖母は戦前から日本赤十字社の正看護師でガチのアレでしたが、正直、自分も同じようになるとは最近まで思ってませんでした。
当時、山本五十六を応援しながら「国際団体だから病院の屋上に赤十字マーク書けば空爆されない」と描きましたが米軍に思いっきり患者ごと焼かれた話が印象に残ってます。
結局、コロナ禍で入院や施設入りすると、もう二度と死に目にも会えなくなるのでそれが寂しいですね。
祖母は看護部長の職業柄か、他人を患者として看るように過干渉とお節介だった。弱った病気の患者にとってみればやたら優しくしてくれるので白衣の天使に見えただろう。
しかし、それを健常な家族にも隣人にも、いらんことまで口出して干渉するので嫌われた。一長一短だった。
私が小中学生の頃、両親が共働きだったので帰宅しても家に誰もいないといけないと、病院を辞めて私を育ててくれた。
たくさん一緒に旅行へ行ったように思う。
父母がスパルタ教育だったので、祖母に逃げたかったが、祖母も過干渉で口うるさいので、近所のヤンキーな兄ちゃんや姉ちゃんの家に逃げていた。
退職後はとても他人に依存的な性格になっていた。過干渉な性格も昔ほど大人しくなった。
10年前に祖父が亡くなってから難聴から認知症が悪化。
家での徘徊や幻聴幻覚妄言や小火など危険行動が多くなり、近所にも迷惑がかかるので、砂を噛むような思いでグループホームから施設へ。
医師と申し合わせたものの半ばだますような形で入所したが罪悪感がハンパなかった。
1年後には家族のことをすべて忘れ、20代以前までの記憶からしか話ができなくなっていた。
そのまま5年間、入所。毎週、会いにいった。月15万円ほど払い続けた。
2年前に経口摂取ができなくなり病院へ入院。
すぐコロナ禍で面会ができなくなり、ガラス越しだったが毎週会いに行った。月20万円ほど払い続けた。
経鼻栄養さえ無理になり、中心静脈栄養になったのが8ヶ月前。
よく点滴だけで8ヶ月も生きたな、と思う。
合計で在宅介護3年、施設入所5年、病院入院2年で10年間の介護生活だった。
結局、私が教育心理学から医学へと転入して、祖母の介護生活の中で遺志を次いだ。
人生を右往左往して消沈していた2014年頃に
「合う合わないとか、できるできないじゃなく、思ったということは、できる可能性があることなんや」という言葉にとても勇気付けられた。
入所後は祖母と一週間ごとに会って話していたものの、認知症の進行で私が国家資格を取ったことを知らない。
アルツハイマー型認知症がこの世からなくなればどれだけ良かったろうにと思う。
祖母は健康体そのもので、難聴からの認知症以外は全く病気はなく、認知症前まで歯も全て残っていた。
病院はコロナ禍で面会拒絶されていたので死を聞いたのは7月28日の9:30頃だったが、老衰なので8時間前の深夜には下顎呼吸やバイタルや死斑等で死ぬことは分かっていただろう。どうせ知らせても会えないので事後報告にしたのは病院の配慮。私は午前中の11:00頃に死を聞いた。ちょうど休みで部屋で眠っていた。
28日の深夜3時頃には自宅介護で私の父が急変していた。全く体が固まっていき、もう死ぬと父は泣きべそをかいていた。深夜に電話で起こされ、ベット上で私は父の体位変換とリハビリをした。
外は雷がひどく、天気の会話をしながらリラックスさせたように思う。
その頃に祖母も急変していただろう。
祖母の親友が近所に住んでおり、そのおばあさんも一年前に亡くなった。
私にとってはそのおばあさんが人格者だったので、第二の祖母のようになっていた。
いつも私の祖母の過干渉と不安症を注意してくれていた。
きっと第二の祖母は、私の父がベッド上でもだえ苦しむのを見て私の入院中の祖母に「孫が父の介護に必死になってるのに、お前はまだ家族に依存して生きてていいのか。負担を減らしてあげるためにお前が死んだらどうや。」と言ったと思う。
割とこんな冷淡なことを言う第二の祖母。
きっとあの世で仲良くみんなで話している頃だろう。骨になって7年ぶりにやっと自宅へ帰宅できたのは悲しいが、あの重度の認知症では帰宅ができないので仕方はない。
点滴での老衰だったので、心の準備はできており、急死よりはダメージが低かったので、祖父の急死のような喪失感は少ない。
まだ私が祖母にあの世で会えるのは60年後とかになるのだろうか。また話したいですね。