岡田尊司・精神科医の本の中で、『人格障害はサルトルの「(無神論的)実存主義」』と指摘されていました。
私自身もそうだとは感じていましたが、本当に境界性系の人格障害はサルトルの実存主義に似ていると文章で言及してるのは初めてみました。
人格障害の時代 (平凡社新書)
パリのサンジェルマンデプレにあるカフェ「Les Deux Magots(レ・ドゥ・マゴ)」。
サルトルやボーヴォワールはここで執筆した。小説家・芸術家のピカソ、ヘミングウェイ、ボリス、アルベール、ベルトルト、ツヴァイクも利用した。
二分法思考になると「唯物論」か「観念論」かの極端二択になる
二分法思考のDTI尺度と日常生活重要度関連の統計の中で、「占い」が二分法選好で無縁だったので、自尊感情の低さと相まって、余計に裏付けられた気がしました。
「二分法的思考尺度(DTI)」 の高い人は、実は他者軽視の尺度(人を見下すこと)とも高い相関を示しています。
そしてうつ病等の精神病理とも高く相関しています。
逆に物事を2つに割りきらないような人は「曖昧さ耐性」の値が高く、健康的で精神病とも相関が低いです。
しかしなぜ人格障害になると「唯物論」に寄るかというと、徹底的に批判的になるために、現実に極端にコミットするからです。
つまり、唯物論vs観念論の二分法の中で、人格障害は唯物論の方に傾倒・執着している、ということ。
そして相反する観念論的なものを敵視して軽視する。
どちらか一方しかないと決め付けるの二分法思考だが、サルトルの実存主義から考えれば、その空虚感こそが唯物論”信仰”へと親和性が高いのです。
サルトルの実存主義とは?
今までの宗教の観念論的な世界観から、人間存在の重要性を突き詰めた結果、唯物論になったのです。
世界的には1950~1960年代にサルトルの実存主義が一世を風靡していました。
しかし1970~80年代頃にフランスで「構造主義」が出てからボコボコに論破されて終わりました。
物事は「ある」か「ない」という単純二分法ではなく、細かく構造的に分析してみないと分かりません。
例えば、「脳と心」の問題が象徴的です。
「脳」と「心」の関係
日本でも実存主義は1960年代の学生運動の思想的バックホーンになり、その後、中国・ソ連のマルクス共産主義(同じ系譜)と並行して衰退しました。
ニヒリズム(虚無主義=”無”信仰)は、日本では1960年代~80年代に学生運動・共産主義(無神論・科学万能主義)で謳歌していました。
サルトル止まりではなくニーチェに
このサルトルの実存主義(無神論)を壊すためには、歴史的には「構造主義」。
つまり抽象思考が大切なのです。
実際に精神病圏では抽象思考値が低すぎるという結果も出ています。
例えば、ニーチェは一度ニヒリズム(虚無主義)になってみて、そこからの克服として「超人」の生き方を説いていましたが、
サルトルの実存主義=(境界性の)人格障害の場合、ニヒリズムで留まったままでそこからの建設的な提案はなく、他者軽視と破滅的な考えしか持たないのです。
有vs無という日本型の教育のあり方が問題
日本ではリベラルアーツでなく「理数系」なんて間違った分け方をしているうちは、知識が横並びに暗記されるだけで、論理・構造的に上へ積みあがってはこないのです。
数学で言うと「ゼロが存在する」とか、ウィトゲンシュタインに言わせれば「”無”が”有る”とか意味不明なことを言うな。」で即論破されるような話を、なぜか執着して「”無”の存在が有る」を信仰するのは、人格障害のサルトル実存主義(空虚感とニヒリズムだけの)ならではです。
神学的(数学的=論理的)な土台の上で整理していけば、こういうことも整理できてくるはずだが、
やはり先日の岡田尊司・医師の言うように境界性系の人格障害(サルトルの実存主義=空虚感=”無”信仰)が、二分法思考(有vs無、どちらか偏向)→他者軽視へと、感情的に結びついてしまうのでしょう。
「あるかないか」だけで世界を見ない方が良いです。
「ある」や「ない」と断言できるのは数学と宗教(唯一神)の世界。
科学は確率の世界。「あるかないかどちらか分からない」のです。