ほとんどの人にとっては、大化の改新が何で起こったのかとか、本能寺の変が何で起こったのかとか、今さら死ぬほどどうでもいいことなのですが、
歴史界隈では血で血を洗うような戦いが繰り広げられているのです。

人によって
一次資料:二次資料:持論創作
の配分があって

①10:0:0の人←お固く50年以上前から情報更新停止。後世に創作だと分かったものも一次にしてしまっているフシもある
②6:2:2の人←安定だが二次と創作を一次並みに誇張しがちになる
③1:2:7の人←もう妄想

①と②が争いやすい。


「学校のテストで自分が合っていた」と「正しい」は別

突き詰めたときに「古ければ正しい」の「質」を問われるわけですが、
「学校で習ってテストで答えて正解したから(先行入力が更新されない)」
「自分がそう思ったから(自己愛)」
と「自分が合っていた」と「正しい」を混同しているパターンが散見され。

答えを決めてかかるのが争いの原因


ある時点から、自分が神様的に答えを決めて演繹的にやってしまう。
科学的手法で帰納的に仮説と結果が積み重なっていない。
客観的、計量的にパラメータが組まれていない。
これが可視化されにくいのが変なところで争ってしまう原因だろうなと。

「悪党」「婆娑羅」「うつけ」「歌舞伎」当時の意味でぜんぜん違う

戦国時代だけでも「悪党」「婆娑羅」「うつけ」「歌舞伎」を現代語訳でそのままごっちゃにしがちで。

study(勉強)の語源は「遊ぶこと」で、school(学校)の語源は「バカの暇人の集まり」、神を重視する古代では人の行いは排他的で悪いイメージだったように。

その時代の解釈が異なる。