前回のまとめ、補足
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仏教では「すべては仮定、仮説である」という「空(くう:実在するものなど何もない)」の思想のため、全ての実体を否定します。
「魂」も、「あの世(天国・地獄)」も、「霊」も、「奇蹟(きせき)」も、全て否定します。
実体を否定するので「唯物論」も全て否定します。
だから「例え話、夢物語」とでも断りも入れず、これらの存在を肯定するのは全てインチキです。
仏教でもキリスト教でも、お金を取る宗教は全てインチキです。
お金を出さなければならないなんてことは、これらの経典にも書いてません。(イスラム教のみ所得の40分の1という決まりがあります。)
そして、奇蹟をひけらかす宗教もインチキです。
キリスト教カトリックでは、奇蹟を厳重に証明する義務があります。
ユダヤ教では勝手に奇蹟を起こしたら死刑です。
仏教内では、日蓮が奇蹟を起こしまくってますが、日蓮も不必要な奇蹟は起こしていません。結果としてやむを得ず起こしたことでそれを誇ったこともありません。
そして宗教内外で優劣をつけたり、組織(団体)の能力の優劣を競おうとするのもニセモノです。
この時点で、すでに”本来の宗教”なんてものは、現存していないに等しいのです。
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前回、仏教最大の難問である、
『魂も死後の世界もないのに、何が輪廻転生(生まれ変わり)するのか?』
この答えについて書いていきたいと思います。
これ以降の話を理解できれば、仏教の体得者です。「悟り」へ直行できます。これが、仏教の凄味(すごみ)であり、醍醐味です。
まず、実在するものは否定するので、
輪 廻 転 生 と い う の も あ り ま せ ん。
魂や、あの世や、霊を否定しておいて、輪廻転生だけあるなんてことが、あるわけないのです。
しかし、魂の輪廻転生を否定すると、直ちに難問が出てきます。
輪廻転生というのは仏教の根本思想なのです。
それは、仏教には『因果律』という考えがあるからです。
まずは因果律について知る必要があります。
これは「もろもろの事がらは原因から生じる。真理の体現者はそれらの原因を説きたもう」という仏教尊者のアッサジが、行者サーリプッダに説いた釈迦の教えの要旨から来ています。
このように仏教は、善因楽果、悪因苦果(ぜんいんらくか、あくいんくか:良いことをすれば良い報いを受け、悪いことをすれば悪い報いを受ける)という『因果律』で徹底しているのです。
しかし、死んで因果律が絶たれてしまっては、この因果応報が成立しません。
因果律の論理が崩れると言うことは、仏教自体の崩壊も意味します。
だから、輪廻転生があって、今世での業(カルマ)は、来世まで持ち越すと、説明しないと論理が崩れてしまうのです。
そこで、インドの哲学者は、肉体の根底にアートマン(本来の自我)という実在を想定しました。
肉体が死んでも、アートマンは生まれ変わり死に変わりして”実在を続ける”としていました。
このバラモン教、ひいてはヒンドゥー教の輪廻転生の思想を、仏教は受け継いで、更に精密化(六道輪廻:天道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道の六道を輪廻し続けるという話)したのです。
『その輪廻転生する我執の根源であるアートマンの実在をも仏教は否定したのです。』
では、魂もなければ何が輪廻転生するのか?
何が因果律の支配を受けるのか?
これを解決したのが【『 唯 識 』(ゆいしき)】です。
この起源を辿れば、龍樹(ナーガールジュナ)が理論大成した『空(くう)』の見解が根本にあります。
『唯識』とは正しく言えば「唯識諸変(ゆいしきしょへん)」といいます。
「ただ(唯)識によって変じだされた所のもの」であり、我々の識(心)こそが物事を作り上げ、決定しているといっているというものです。
例えば、仏教の数ある宗派の中で、特別に信徒もいない、お墓もないという宗派で「法相宗」があります。
法相宗の寺である興福寺の高僧、多川俊映(たがわしゅんえい)師は、その著書「唯識十章」(春秋社)の中で唯識を表す言葉として次の短歌を引いています。
『手をうてば 鯉(こい)は餌(え)と聞き 鳥は逃げ 女中は茶と聞く 猿沢池(さるさわのいけ)』
手を叩くという行為の一つを取っても、それを受け取る側の状態、条件の違いでこれほど意味は異なってくる。
つまり、耳から聞こえる音、すなわち耳識は同じでも、意識の差でその理解仕方、存在の在処(ありか)がこれだけ変わるのである。
・・という話です。
仏教原論である「唯識」とはその名の示すとおり、このように識(しき)のみという教説です。
識(しき)の他には何も実在しない、それをあたかも実在しているように思うのは妄想に過ぎないと考えます。
唯識論の理論は、行動心理学(behavior psychology)および精神分析学に譬(たと)えると分かりやすいです。
視角、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、という5つの知覚(perception)を、唯識論では五識(ごしき:眼識、耳識、鼻識、舌識、身識)といいます。
ここまでは行動心理学と似ていますが、行動心理学では意識を知覚の一種とはしません。
唯識論では、この五識を総合する作用を重視して意識を第六識と呼んで、合わせて「六識」といいます。
精神分析では無意識(潜在意識)が存在するとしてこれを重視して分析の中心に置きます。
仏教は、仏になるため(因果律の輪廻から抜け出すために)に修行します。
その修行の目的は、煩悩をなくすることです。
しかし、煩悩は意識ではコントロールできません。
煩悩は我執(がしゅう:自分にしがみつく)ことから来ます。
大乗仏教唯識派の学者、無著(むぢゃく:アサンガ)は、
「いつでも我執(われにこだわる心)は起きていて耐えることはない」という大定理を発見しました。(「摂大乗論(しょうだいじょうろん)」)
つまり、人間の無意識を底までつきつめてゆくと究極的には我執につきあたるのです。
自分が善行をしているつもりでも、深く自省すると「自分のためにしている」ことに気付きます。
善意で他人のために行っているときでさえも自分へのこだわりは捨てきれません。
この我執は、必然的に不断に起きます。
ゆえに煩悩は必然で、意識において、どんな修行をしても修行は無駄なのです。
・・ではどうするのか?
無意識の底までおりていって、我執の主体を突き止めるのです。
フロイトの精神分析学が、無意識の底にある複合体(コンプレックス)の正体をつきとめて、それを意識にもたらせば治療できると考えたのと道筋は同じです。
(しかもフロイトの場合は「我執」の中心は性的我執[リビドー]であり、それ以外の我執についてはあまり研究はしていませんでした。)
しかし唯識論は、すべての我執を論ずるのだから、研究対象はずっと広いのです。
我執?唯識?そんなものが”実在”するの?
”実在”を全て否定するのが仏教の根本じゃなかったの?
次に出てくるであろうこの疑問を解決するために、次回は「魂がなくても輪廻転生は可能」という唯識での理論を記載致します。