「~だなぁ」「〇〇なんだよなぁ」と語尾につける人っていませんか?
最近はネットのスラングで「〇〇なんだよなぁ」とぼかした感じに定型文のテンプレートで使ったりします。
私はこれを「相田みつを化現象」と読んでいます。
相田みつをの詩は、終助詞が「だなぁ」で終わります。
語尾に「だなぁ」つけると「相田みつを」っぽくなると言われます。
願望でもなく、命令形でもなく、疑問詞でもなく、断定でもなく、
「だなぁ」という終助詞は、個人を主体として感動・詠嘆の終助詞にすることで、自分を現実に止めておくことが出来るのです。
本来は個人主体に重きをおく実存主義者がこのような言葉遣いや書き方をします。
逆に外から見ると自己中心とも捉えられるのです。
「〜だなぁ」「なんだよなぁ」という感嘆終助詞を語尾につけて相田みつを化しつつ、「あるいは、かもしれない」と推量助動詞で村上春樹化する若者たちが増えています。
「吾輩は猫である」と私が猫になれる日本
そもそも日本人は存在論が曖昧です。
例えば、夏目漱石の「吾輩は猫である」という有名な本があります。
この英訳は「I am a cat」です。
「I am the cat」でないのは「私=猫」だからです。
「the」で「私とその猫」では別になります。
これは人間存在重視の西洋のアリストテレス存在論に対する日本独自の表現の揶揄です。
存在や説明を示すbeからtheでなくaとしました。
このように日本では必ずしも主語がI(私は)とならないので、存在そのものが怪しくなります。
悩みの原因が外にあるか内にあるか
小説の不条理ジャンルでカフカ「変身」とカミュ「異邦人」はよく対比されます。
カフカ「変身」
カミュ「異邦人」
外的な社会や家族に対する不満のカフカ。
内的なこだわりでアスペルガー的なカミュ。
カフカの「変身」では社会や家族に対して不満やコンプレックスを持ちながら自分は昆虫に変身してしまいます。
カミュの「異邦人」では「太陽が黄色かったから」という理由で殺人をして死刑になります。
悩みが外界→外界こだわり→統合失調症と変異している
村上春樹の文章は推量的です。
「〇〇。あるいは〇〇かもしれない」という推量助動詞の表現が頻出します。
そして主人公の自分は頑なに決断することなく、相手と五感的な動作を何度も確認し合う文体が特徴的です。
カフカだとクモに変身して殺されて「社会を恨む」。
カミュだと「水曜日だからクモを殺した」と文脈不明。
村上春樹だと「クモ?あるいはクモだったのかもしれない」とmayで推量助動詞の可能性的。
精神病・神経症(カフカ)と発達障害・自閉症アスペルガー(カミュ)と、統合失調症(村上春樹)まで変異してきているのです。
自殺記にみる内外の悩み変化
「二十歳の原点」と「卒業式まで死にません」という自殺記にも同じ傾向を見ることができます。
同じ自殺記でも60年代以降と90年代以降で「悩みが外か内か」で違います。
60年代頃は「国は!社会は!何をやっている!私の思いを知らない!」と悩んでいました。
90年代以降は「国や社会なんて知ったことではないが、私は私なのだろうか?」という存在根底の悩みになっています。
日本人はTwitterとFacebookが建前。LINEとDiscordが本音。
今の日本人はTwitterとFacebookが建前。LINEとDiscordが本音です。
2007年以前まではリアルが建前、メールやネットの掲示板が本音。
2007年以降はメールやネットの掲示板が建前、TwitterとFacebookが本音。
2012年以降はTwitterとFacebookが建前、LINEやDiscordが本音。
インターネットが浸透しておよそ25年。
どんどんリアルから乖離し、コミュニケーションはネットの隔離されたSNS空間になりました。
外国人の場合、公式パブリックに顔出しして情報発信していくことが多いですが、日本人の場合は少人数の隔離空間で閉鎖的になっていきます。
これは島国ならではの集団意識によるものが大きいです。
自分を常に閉鎖的な安全地帯に置いてから、外に対して攻撃を加えるというのが閉鎖的な日本人の心性です。
なので外に意見として出る時に「私は○○と思います」ではなく、「〇〇なんだなぁ」というぼんやりとした意見の言い方になるのです。
それは裏で自分が傷つきたくないという心の表れでもあります。
自閉症スペクトラム障害と統合失調症なのに自我があるという新人類
最近は自閉症スペクトラム障害と統合失調症を併せ持つのに自我があるというハイブリッド人間が極々まれにいます。
周りも本人も気づくことなく自覚がありません。
本人が全く無自覚に社会に適応しているので、おかしさにさえ気づいていません。
(参考)
私の知る限りまだ数名しか知りません。
しかし彼らがこれからの人間進化の新人類であると確信しています。
適応とは、進化が先に来て、環境社会がそれに合わせようとしていくのです。