ひきこもりの事件が起こると「ひきこもりはいけない!うちの子は自立するために厳しく育てないと!甘やかすな!」という方がいます。
これは大間違いです。
実は、ひきこもり家庭の親の大半が、そういうことをやりすぎた親だからです。
なぜ思いと逆のことが起こるのでしょうか?
その理由は「安全基地」と「反抗期」にあります。
安全基地の重要性
子どもは2~5歳までに「私はママ・パパが守ってくれているから万能なんだ!安心なんだ!」という万能感を得ます。
これを幼少期は「基本的信頼感」。
いつでも親という拠点の安全な基地に戻れる「安全基地」と言います。
これが形成されないまま思春期に突入すると、自己肯定感さえ得られません。
前提から自分の存在にさえ疑問を懐き、恐ろしく人間不信で攻撃的な性格になります。
精神病への苗床を作っていきます。
自然的に起こる反抗期の重要性
反抗期は10代の頃に起こります。
親が何を言っても反抗してくる時期です。
子どもは2歳頃にも何をやっても「ヤダヤダ」という嫌だ嫌だ期という時期もあります。
これも自己主張するために自然発生的なもので、10代の反抗期も同じです。
例えば1990年代に毒ガスサリン事件を起こしたオウム真理教という新興宗教団体は、医師や弁護士の理科系の超高学歴の団体でした。
その信者は大半が「良い子だった」と言われました。
具体的には「反抗期がなかった」ということで共通していたのです。
彼らは別に「良い子でちゅね~~~」と幼い時から甘やかされ続けて育ったわけではありません。
親に押し付けられた学歴成績競争の中で、自分の感情も出せないほど厳しく教育されました。
その結果、反抗期さえも抑圧してしまいました。
周囲から、社会からは「逆らわない良い子」として評価されますが、その評価を得るために心理的発達を抑圧してしまっていたのです。
それが社会に対してのテロリズムという形で爆発しました。
「厳しく育った子」と「甘やかされて育った子」の反抗期の違い
「良い子でちゅね~~~」と幼い時から甘やかされ続けて育った子も自然に反抗期はあります。
「厳しく育った子」と「甘やかされて育った子」の違いはここで出てきます。
実は「厳しく育った子」は反抗期があっても、基本的信頼感がなく、安全基地としての親が機能しないので、
そのまま絶縁的に親元から家出するか、逆に親の穀潰しをしてやろうとひきこもります。
オウム真理教の信者がそうであったように復讐心で家出するので、対外的にその攻撃性が爆発します。
「甘やかされて育った子」は反抗期があっても、基本的信頼感はあり、安全基地としての親も機能するので、
家出をしても適度な親元との距離を取り、ひきこもるような行動は取りません。
むしろ親の介護不安などでお互いに不安共依存となってひきこもり合うような、消極的に内向的な行動を取ります。
ただそれは、基本的信頼感が形成されているので社会的な繋がりができるのも早く、短期的なものに終わります。
どちらが問題かと言うと、明らかに厳しく育った子のほうが、社会的にも問題を起こし、ひきこもり状態を長期的に悪化させていくのです。
逃げ場があるという大切さ
「厳しさは大切!アマゾンの奥地のジャングル部族は親が子を叩きまくって強くなって自立する!」という主張をする人がいます。
体罰の議論などでもよくあります。
「昔はもっと先生や親から叩かれまくった!今の子達はそれが足らない!甘えてる!」という本人の経験が元になっているのが大半です。
これも大間違いです。
その理由も「安全基地」にあります。
厳しく体罰慣習のある「叩かれまくった昔の日本」や「アマゾンの部族」と今の日本が何が違うかというと「安全基地」という「逃げ場」があるからです。
どんな内容であっても人間が攻撃的なことを受けた場合、それを受容・共感してくれる他人が必ず必要です。
「昔の日本」は、1人から嫌われても他の他人が救ってくれていたのです。
例えば、学校の先生に叩かれても親が共感して救ってくれたり、親に叩かれても学校の先生が共感してくれたり、家にいるおじいちゃんおばあちゃんだったり、近所の親戚のおじさんおばさんだったり、友人知人だったりしました。
身近な「安全基地」がたくさんありました。「逃げ場」がたくさんありました。
その内容がどう考えても反社会的であって、共感されないものであっても、共感して話を聞いてくれる人が身近にいました。
例えば、「万引きして警察に捕まった警察ウゼー」「学校でタバコ吸ってセンコーに停学食らったウゼー」でも「あぁーウゼーよなー」と共感してくれる仲間が必要なのです。
決してその行為を「支持」することはしなくても「そんなことをしたくなる気分だったんだ」と感情に「共感」してくれる他人です。
身近な「安全基地」がたくさんありました。
それが今はないのです。
広い意味での「安全基地」がないので、何か攻撃的なことを受けると、誰にも打ち明けられず抑うつして、悶々とストレスをためるしかないです。
これがない状態で、「叩かれまくった昔の日本」や「アマゾンの部族」のように体罰容認するとどうなるかというと、一気に犯罪的で攻撃的な人間が増え、ひきこもりが増加します。
通過儀礼は別に必要ない
古い社会形態ほど、大人になるための「通過儀礼」を作ろうとします。
アマゾンだとピアス穴を開けたり、特殊な装飾をしたり、江戸時代の日本だと元服式で断髪したりしました。
後進国に特徴的です。
なんの合理性もなく、民族間での伝統ルールで一体感を得ているだけだからです。
先進国、新しい社会になるとこう通過儀礼はなくなります。
やること自体が非合理的で無意味だからです。
なくなるのが悪いことではありません。
なくなった以上、それに適応していかなければならないのです。
叩かれる体罰的な厳しい環境は、昔の日本やマゾンの部族ならよかったかもしれませんが、現代はその「環境」ではないのです。
「環境が違う」のに、導入するのは適応できなくさせるだけです。
例えるなら、昔は武士が人を斬り殺しても良かったですが、現代で「帯刀が今はない!甘えてる!」と言われても「環境」が違うのです。
ただ人が成長するには喪失経験が必要です。
しかし別にあえて社会的に意図的に与えなくても良いです。
なぜなら人は必ず反抗期の時点で「何かを失う」という体験を自然にします。
それは今までの万能感のある自分であったり、失恋であったり、離別や身内の死亡であったりもします。
そこで「安全基地」さえあれば、自然と救われていくのです。
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