なぜあなたは集団の中で運が悪いのか?(悪運を引き寄せるホットポテト)

心理学・精神医学

a0002_005486おみくじや、パチスロ等の1人でやるギャンブルの運は決して悪くないのに、トランプのババ抜きや、ハンカチ落としや、じゃんけん等、集団で参加するゲームになると運が悪くなることはないでしょうか?

ゲームは、偶然でランダムなはずなのに、おかしいですよね。理不尽ですよね。

実は集団ゲームに参加する場合、あなたが「敗者」になることは、最初から決っているのかも知れません。

この現象を、心理学の交流分析理論(TA理論)の先駆のエリック・バーンの弟子、ファニタ・イングリッシュ「ホットポテト理論」と言うので説明しています。

以下、

時ニール(時田憲一) 2011-03-05 のつぶやき

時ニール(時田憲一) 2011-03-05 のつぶやき
【ブログ更新 心を支える心】 時ニール(時田憲一) 2011-03-04 のつぶやき 02:10 via FC2 Blog NotifyオススメDVD:リストカットや非行犯罪や薬物やいじめで悩む若者の現状と向き合い方。水谷氏の人物像も分かる...

より、要点を転載します。

(転載はじめ)

経験した人しか分からないと思うが、運の悪い時は徹底的に悪い。何をやってもどう努力しても悪く傾く。ただの運の悪い思い込みとか、努力で解決できるとか、そんなレベルではない。本当に運が悪い。偶発的に悪いことが起こったり、根も葉もないところから全く知らない悪口が立ったり風評被害が起こる。

運を良くするために、気学や風水の要素を取り入れることも知識のツールとしては大切だが、実はいくつかの悪運は”引き寄せている”ので、それを最小限に留めることはできる。これは交流分析理論の先駆のエリック・バーンの弟子のファニタ・イングリッシュのホットポテト理論が一番説明しやすい。

ホットポテトとは、アメリカの子供達が輪になってポテトを回し、音楽が止まった時にポテトを持っていた子どもが罰ゲームをする遊び。誰しも熱々のポテトは手で持つと熱いのですぐに他人に渡したい。日本では、トランプのババ抜きやハンカチ落としがそれに当たる。実はこれは最初から敗者が決っている。

なぜババ抜きや、ハンカチ落としや、じゃんけんなど、偶然のランダムで一見確率的なのに、「敗者」が最初から決っているかというと。集団ゲームで負ける人と言うのは、ホットポテトは最も「傷つきやすく、支配されやすく、いじめやすそうな人」に渡るようになってるから。

パチスロやおみくじ等、1人でやるギャンブルはそんなに運が悪くないのに、ババ抜きやハンカチ落としやじゃんけんなど、複数でやるゲームになると一気に運が悪くなる人がいる。それは「この人に損をさせたい」という無意識でのホットポテト理論が集団内で機能しているから。

要するに運の悪い人は、最初からホットポテトの受け取り手になっている。これが機能して自分の人生の脚本を描くことは「エピスクリプト(Episcript)」と呼ばれる。普通の人生観は本人の意志で出来上がるが、エピスクリプト脚本は他人の欲求や病理を引き受けたネガティブな人生観になる。

TA理論を継承したファニタ・イングリッシュのホットポテト理論では、ホットポテトの授受は、親と子、夫と妻、上司と部下、先生と生徒、いじめっ子といじめられっ子、治療者と患者、教祖と信徒、官僚と国民、色んな所で見られ、自分がどの立場になりやすいか分析することが解決の糸口になると言う。

人は何かの目的を達成したとき「このやり方は間違いではない、この生き方は正しいのだ。」と万能感を持つ。それが最も危険なことで過大評価や自意識過剰を通り越して、自己中心的に「自分は何でも思い通りになるパワーがある」まで現実検討能力が低下する。そして必然的に最後は「自己破滅」に向かう。

なぜ万能感が肥大化すると最後は自己破滅に向かうかというと、幼児期の子どもが明らかにケガする高所から飛び降りたり、車を見たら突撃するように、「自分は何をやってもママがいるから大丈夫」と、幼児の万能感まで退行してリスクを求めるから。そうやってママ(周囲)に構ってもらおうともするから。

 

逆にエピスクリプトでホットポテトの受け取り手になる人は「泣き寝入り型万能感」と呼ばれる。運が悪くても理不尽でも、一生懸命勉強して仕事すれば褒められて報われる日が来ると万能に信じている。だが残念ながらそんな日は一生来ない。悪いことを引き寄せる苦労人。良い人で、真面目で、イエスマン。

エピスクリプト万能感は、怒りや悲しみの本物の感情を全て抑圧するので、不安や憂鬱や自己卑下になる。

イイ人だが周囲に被害者面して同情を引こうとする

悪運も理不尽も耐えて我慢したら、いつか必ず誰かがこの気持ちを理解して報われると言う万能感。

自分だけでいい話を「汗水垂らして頑張って勉強や仕事をして、歯を食いしばって耐えろ。」と他者にまで欲求する。

いかに自分の「我慢」が素晴らしいかを証明する自己中心的な動機ために、自分のみならず、他人を自分よりもっと不幸に引きずり下ろすことで信者を増やそうとする。

そうやって「下の者」を作って黙らせ、本当は相手は抑圧してるだけなのに、本当は相手にとって無ければいい話だったのに、「理不尽に苦労して耐えたことで成長できました。ありがとう。」などと信者に言わせて「やはりオレは正しい。」と、他人の不幸を見て、卑屈に満足する。

こちらも最後は必然的に「自己破滅」な末路になる。

言わば「我慢教(耐えれば報われる)」の泣き寝入り万能感は、社会や組織や学校偏差値などの価値観に縛られてる人が大半。

逆にそれを搾取する「自分教(自分こそ全て正しい)」の奢(おご)り万能感も、

どちらも自分以外の現実が考えられないという現実検討能力低下の共通点がある。最後は自己破滅。

例えば、織田信長と明智光秀の関係が象徴的。

信長が「自分教(オレこそ全て正しい)」の奢り万能感タイプ。

光秀が「我慢教(耐えれば報われる)」の泣き寝入り万能感タイプ。

信長の人生後期はかなり傲慢なことをやり、許容し続けた光秀も最後は「どうにでもなれ」と自虐的に謀反した。相互に自己破滅。
実は、このようなホットポテトの関係が、一見、偶発的に見えるババ抜きやハンカチ落としやジャンケン等の集団ゲームに入り込んでいる。

自分教で支配者の奢りタイプは短期で自爆するが、それ以上に我慢教で被害者のタイプは、常に運が悪く、奢りタイプを”引き寄せ”、巻き込まれたり長期的に自殺する。

「我慢教」「自分教」真面目にコツコツ耐えようとする人と、それを搾取しようと傲慢になる人

「我慢教」の人は必然的に「自分教」の人を引き寄せて、ハズレくじを引かされ苦労する。

双方が不幸で自己破滅な人生を送る。だからこういう人たちが大方、どういう人生の末路を向かえるかは想像がつく。

「我慢教」「自分教」も、どちらの宗教も「自分以外の現実はあり得ない。」と万能感を確固しすぎて、現実検討能力の低下が起こっている。

だから「今、ここ」の時点で、問題に対する解釈を変えていかないと、確実に不幸のシナリオを辿る。その究極の方法論はまた後日。

経験した人しか信じられない話かもしれないが、泣き寝入り万能感が進んだ人は、自分をシンデレラのように不幸な人生であるべきだと自発的に不幸を選ぶようになる自分はシンデレラのように高貴で最後は成功すると望むが、設定上、不幸でないとシンデレラではないので、常に不幸を選び取ろうとする。

つまり、自分はシンデレラのように高貴に見せるが、同時に不幸でないと話が展開しないので、成功した自分に違和感を覚え、自発的に不幸になろうとする。例えば、借金苦で完済しそうなのに新車を買ってまた借金したりする。こんな不毛な行為を繰り返す。これはDVで関係をリセットさせようとする心理と同じ。

例えば、散々勉強しろだの、社会的に高い地位や収入を欲求する親がいる。それまで理不尽な不幸や苦労を耐え抜けと言う。しかし実際に合格したり高収入を得ても、褒めもせず「学校に合格してまた学費が出て行く。不幸。」だの「お金はまだ足らない」と全て不幸に解釈する。

これは馬の頭に人参の状態いつまで経っても、死ぬまで、目標を得て満足することもできず、迷走して壁にぶち当たって自己破滅する。
神経症者対のような、嫌なものは見なければ存在しないのと同じ。嫌なものは切ればいい。自然淘汰。その勇気が幸福へ向かう秘訣。

「嫌なものを切るなんて傲慢なことできません!それは悪の因果のカルマになって返ってくるから今耐えるのです!」と、優しい人は言うが、仏教者として言えば、もし学びのために必要な悪い因果とやらなら、また返って来くるはずなのでその時に対処すればいい。返ってこなければ学び終了。今は無理に耐えなくていい。

ホットポテト・ルーティングと言う言葉もある。

ISP同士が複数の接続点でピアリングしている時、ISP間の通信は送信側に近い接続点を通るようなルーティング方法。他ISP宛の通信は、できるだけ早くそのISPに渡してしまいたい。エクスクリプトが機能して悪運が回るのも同じ原理。

(転載おわり)

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