日本人に世界最高学府ハーバード大学を筆頭とするアイビー・リーグやイギリスのオックスフォード大学の、
世界の基本学問体系である「リベラル・アーツ」を理解してもらうためにどうすればいいか?
そう考えた結果「グスタフ・クリムトとフランツ・マッチュの絵画を見てイメージをつかんでもらえるだろう」と感じたので書きます。
リベラル・アーツて?
という人は前記事からご覧ください。
世界の全学問の対立図【まとめ】
リベラル・アーツの名の通り、古典的なリベラル(自由主義)の発祥であるオーストリア学派(ウィーン学派)を知れば良いです。
幻の「リベラル・アーツ」5作品
グスタフ・クリムト(Gustav Klimt:1862-1918)と、学友のフランツ・マッチュ(Franz Matsch:1861–1942)いうオーストリアのウィーンで活躍した画家がいます。
彼らは「リベラル・アーツ」として5つの作品を残しています。
彼らは1894年にウィーン大学大講堂の天井絵を文科省から依頼されました。
天井中央の「闇を制する光の勝利」の絵を中心に、
「神学」「哲学」「医学」「法学」の4学部を象徴する作品を描いたのです。
フランツ・マッチュの担当は「闇を制する光の勝利」と「神学」
グスタフ・クリムトの担当は「哲学」「医学」「法学」を描きました。
クリムトの「哲学」「医学」「法学」の3作品のみが有名なので知らない人が多いですが、
この5作品で1つの「リベラルアーツ」という作品です。
しかしクリムトは一作目の「哲学」を出した瞬間に「女性の裸体が不道徳で醜悪だ」と叩かれて展示禁止されました。
それでも曲げずにウィーン分離派となり「医学」「法学」と同じような手法で描きました。
オーストリア絵画館に飾られますが、第二次世界大戦で作品を避難させていたインメンドルフ城が火災となって「哲学」「医学」「法学」の3点とも焼失しました。
一方、フランツ・マッシュ絵画の「闇を制する光の勝利」はウィーン大学の講堂に、「神学」はカトリック神学部の会議室に今でも展示されています。
闇を制する光の勝利(The Victory of Light over Darkness)
闇を制する光の勝利(The Triumph of Light over Darkness, 1897)
フランツ・マッチュ(Franz Matsch)作
なぜこの絵を中心においたのか?
軽く歴史を知らなければなりません。
ハプスブルク家(ハプスブルク=ロートリンゲン家)の支配する神聖ローマ帝国がナポレオンに滅ぼされてからも、ハプスブルク家はオーストリア=ハンガリー帝国(1867年-1919年)の皇帝のままでした。
フランス革命やナポレオンで混乱するヨーロッパで、1814年にオーストリアのウィーン会議でヨーロッパの国際秩序として欧州を元に戻そうとウィーン体制が敷かれ、君主制のもとで正統主義を唱え、自由主義や国民主義の運動の抑圧をしたのですが、1848年革命でさらに革命運動が盛んになってクリミア戦争(1853年)も起こって完全崩壊していました。
オーストリア帝国(旧神聖ローマ帝国)のハプスブルク皇帝は再びキリスト教で集結させたい思いもあって、ウィーン大学の中心絵にこの絵を飾るに至ったことが察せられます。
上に天国、下に地獄という、ミケランジェロの「最後の審判」と同じ構図になっています。
リベラル・アーツにおける闇を制する光の勝利
注目すべきは「光 vs 闇」という対立を描いていることです。
それまでキリスト教では善と悪はあっても、光と闇という対比はありませんでした。
キリスト教の視点に立てば、光はキリスト教カトリック(ローマ・カトリック)です。
ではキリスト教から見た闇は何かというと、ジョン・ロック等の啓蒙思想を崇拝して「人間の理性・合理こそ中心だ!」と自由主義を唱え、理神論的あるいは無神論的な人たちのこと。当時の反キリスト教的な革命家のことです。
「神を信じないなんて闇だ!」というわけです。
「理性と合理(reasonとratio)」は同じ語源。
合理主義とは「損得勘定」です。理性合理主義とは、元々は資本主義の精神「お金儲け」のことです。
「人間が自由にお金儲けをするなんて闇だ!」とキリスト教カトリックは感じていました。
まずは光こそ素晴らしいというイメージを中心に置きたかったのです。
神学(theology)
神学(theology)
フランツ・マッチュ(Franz Matsch)作
背景の首なしのイエス・キリストの上空から光が降りてきて、絵の中央の人物の頭で光輪を描いています。
中央の人物は何かをひらめいたような顔で、手元の巻物に書き込んでいます。
これを「天啓」や「啓示」と言います。
「神の啓示」は、具体的にはキリスト教カトリックの多数派において2本あります。
それは「神の啓示」と「自然の摂理」です。
普通の「神の啓示」は「地上は神が創ったものでそこに啓示がある」という考えです。
しかしそれだけでは奇跡や天災などの超自然現象を説明しきれなかったので「自然の摂理」も加えました。
神を自然の摂理(プロビデンス)に置き換えて現実世界に親近感をもたせたのです。
神様が宇宙全てを創造したというのを「創造論」と呼び、未来まで起こることは全てすでに必然的に決められているというのを「予定説」と言います。
例えば、親族が災害で若くして亡くなったとして「神様がすべて作って啓示があるんだよ」と言われてもピンときません。
なんて薄情な神様だと思われるでしょう。
そこで「自然の摂理なんだよ」と、自然の中にも神様がいるという世界観に持ってこれば身近に信仰を感じることができます。
この「自然の摂理」の思想が拡張され、のちにリベラル・アーツとなり、近代学問(サイエンス:自然科学・社会科学)となっていきます。
特に近代以降の神学の流れは摂理重視になっていきます。
リベラル・アーツにおける神学
「神学」はリベラル・アーツの上にある4つの上級学問の1つです。
そもそも「神学」とは端的に言えば「神の存在証明」の学問です。
どうやって神の存在証明をするのか?
神学で「人間が神との対話」に使う道具が「数学(mathematics)」です。
神学(theology)とは数学(mathematics)とほぼ同義で考えていいです。
古来より神は矛盾があると皆殺しするので、数学で証明できないということは皆殺しを意味するので必死でした。
数学(=神)は必ず答えが1つないとおかしいと信じていました。
ピタゴラスなど古代ギリシャの数学者は必死こいて数学証明しました。
その神学=数学となり、そこから哲学・論理学(矛盾がない)になりました。
数学の証明することで神様を感じていたのです。
「数学(mathematics)」は、ギリシャ語で「学ばれるべきもの」を意味する「マテーマタ(mathemata)」を語源とします。
古代ギリシャでは、数学は、算術・音楽・幾何学・天文学の4つ(クアドリヴィウム:quadrivium)です。
離散空間の中での、絶対的な算術、相対的な音楽。
連続空間の中での、静的な幾何学、動的な天文学です。
中世以降は、文法、修辞学、弁証学(論理学)の3つ(トリヴィウム:trivium)が加わって、自由7科のリベラルアーツ(liberal arts)へと発展していきます。
基礎教養である必修リベラル・アーツ七科を履修したあと「哲学」をはさんで、上級学問である「神学」「法学」「医学」を学びます。
哲学(philosophy)
哲学(philosophy)
グスタフ・クリムト(Gustav Klimt)
裸の老若男女が帯状に生殖を繰り返してこの世から宇宙へ上がっています。右側にはスフィンクスの頭部があります。
スフィンクスは、エジプト神話、ギリシア神話、メソポタミア神話等に出てくるライオンの胴体と人間の顔を持った怪物です。ギリシャ神話では顔が女性で、翼も生えています。
ギリシャ神話のオイディプース(エディプス)に対して、スフィンクスは「朝は四本足、昼は二本足、夕は三本足。この生き物は何か?」というなぞなぞをして、オイディプスは「人間」と答えることができたので、スフィンクスは崖から身を投げました。
この神話が19世紀にエディプス(男子が母親に性愛感情、父親に嫉妬する無意識の心理葛藤感情)の象徴的な話と重なり、ロマン主義や象徴主義の画家たちの中で、エディプスとスフィンクスは「芸術的自由」の象徴だとして人気がありました。
リベラル・アーツにおける哲学
リベラル・アーツの歴史上、元々「神学」が最初にあり、次に「法学」、次に「医学」、次に「哲学」と続いていきました。
これらは「人間が神様の存在証明」をするものでした。
フランス革命やピューリタン革命などの革命時代以降、人間が「神様の不在証明」をする近代学問(サイエンス:自然科学・社会科学)が出てきた時に、どこに属させるかということで「哲学」の下に学問(サイエンス)を置いた経緯があります。
だから今でも理科系の博士でもPhD(哲学博士)と呼称されます。
「哲学」は「神様」と「人間」の世界をつなぐ曖昧で、悩ましいものとして描かれています。
医学(medicine)
医学(medicine)
グスタフ・クリムト(Gustav Klimt)
中央下にいるのは医神アスクレピオスの娘のヒュギエイア。
その背後には生と死を象徴する老若男女の裸体が生命の川として描かれています。
左には胎児の上に若い女性が乗っかり、この世から宇宙へ上がっていく構図の絵になっています。
医学(medicine)の語源は、イタリアのメディチ家(1200年頃~)に由来します。
それより前の起源になると、ローマ人の医学の父ヒポクラテス、もっとさかのぼるとヒポクラテスの先祖とも言われるギリシャ神話の医神アスクレピオスになります。
アスクレピオスは「ヘビを巻きつけた杖」を持っていました。
アスクレピオスの杖と呼ばれ、今でも世界保健機関(WHO)や米国医師会のシンボルマークになっています。
しかしこの絵に描かれているのは娘のヒュギエイアです。
アスクレピオスの娘のヒュギエイアは「ヘビを巻きつけた杯」を持っていました。
「ヒュギエイアの杯」と呼ばれ薬学のシンボルマークになっています。
男性医神のアスクレピオス信仰も、女性医神のヒュギエイア信仰も流行りました。
クリムトは生命の根源を女性として描いています。
絵画の構成上、視点移動は左上から右上、左下へと向かうので、左上に「生の象徴である女性(おそらくイブ)と胎児」、その女性のへその緒のような髪の毛を介して、人間界では右上に「死を象徴するドクロ」を対比的に描いています。
次に下に向かうと根底にはヒュギエイアが「ヒュギエイアの杯」で生命の川の源流となっているという構図です。
生と死は川のように混ざり合う曖昧なものであり、医学によって生かされたりも殺されたりもするという一つのストーリー性も表現されています。
リベラル・アーツにおける医学
「医学」はリベラル・アーツの上にある4つの上級学問の1つです。
元々医学は「神様の奇跡」でした。
祈祷師や呪術師が神様の力を借りて治癒していると考えられていました。
古代の医師は今のように白衣を着た理科系の合理的な人ではなく、神様と対話する呪術師です。
1200年頃にメディチ家がMedicine(メディスン)として医師の医療学問を体系化させてから今のリベラル・アーツの医学になりました。
クリムトの絵画の「医学」は、より最古の起源を描こうとしているのが分かります。
前記事
リベラルアーツにおける医学とは?
法学(Jurisprudence)
法学(Jurisprudence)
グスタフ・クリムト(Gustav Klimt)
「医学」から2年後に描かれた「法学」の絵です。
前の2作品と比較すると天に昇るようなビジョンはありません。
前年にベートーヴェン・フリーズという壁画を描いていたので平面的な装飾に傾倒していたとも言われています。
後ろには小さく3人の女性、手前にも3人の女性がいます。
そして罪人をタコが襲っている構図です。
後ろで目を向けている3人は真実、正義、法の「ホーラ女神3姉妹」です。
平和の女神エイレーネー(パクス)、正義の女神(ディケー、アストライアー、ユースティティア、ジャスティスとも同一視)、秩序の女神エウノミアーです。
手前にいるのは「エリーニュスの3女神」です。
復讐の3女神とも呼ばれます。
アレークトー(止まない者)、ティーシポネー(殺戮の復讐者)、メガイラ(嫉妬する者)の三女神と呼ばれます。
アレークトは不道徳、ティーシポネーは殺戮、メガイラは嫉妬です。
ローマ神話やギリシャ神話に登場するオリュンポス十二神より古い神々にティーターン(タイタン)があります。
エリーニュス3女神はティーターンに属しています。三相女神と言って3人で一つとして例えられています。
中央下の罪人は海の災害の象徴であるタコ(クラーケン)に食べられています。
それを助長するように復讐のエリーニュスの3女神が取り囲んでいます。
遠くから法を司るホーラ女神3姉妹が見ています。
間の隙間からわずかに2人の男がいます。(正体不明)
前作の「法学」や「医学」の作品が散々に批難されて展示中止されたので、災害に巻き込まれたのに罪人として裁かれるクリムトの心象風景がそのまま出ています。
リベラル・アーツにおける法学
「法学」はリベラル・アーツの上にある4つの上級学問の1つです。
リベラル・アーツがそもそも興隆したのは、フランス革命やピューリタン革命などの革命運動、ひいては今の資本主義に精神、プロテスタンティズム運動が背景にあります。
これは中世に貴族や僧侶が民衆を規制しすぎた反動です。
中世の貴族や僧侶は聖書を勝手に解釈して独自のルールを作り、民衆を増税・規制して苦しめていました。
例えば「おいしい」と感情を出すだけでも、貴族や僧侶は聖書を片手に「神に反して人間の主張をした。こいつは魔女だ。殺してしまえ。」と、かの有名な「魔女裁判」という理不尽を行っていました。
この反動でのフランスやイギリスでの革命運動が、今の資本主義を作り出しました。
この資本主義の精神を説いたマックス・ヴェーバーの言葉を借りると、国は放っておくとリヴァイアサンという独裁の怪物になります。
なので憲法で国を「義務」で縛ることで、国民の「権利」として自由や財産が保障されるという考えに基づいています。
これがリベラル・アーツにおける「法学」の考え方です。
法(Low)の語源はエジプトの太陽神ラー(Law)にあります。神学を言語化したものが法学です。
なので神学(数学)と同じように、矛盾なき論理学で、神を論破しなくれはなりません。
神様を論破して縛り付けておかなければ暴走してしまいます。
旧約聖書のノアの方舟やソドムとゴモラの大火災のように「ジェノサイド(大量殺戮)」されてしまう・・と古代の人は必死に論理に矛盾がないように法を作りました。
神学(数学)で間違える、解が違うということは「人類皆殺し」と同じ意味なのです。それは法学でも同じ。
そう考えられていました。
裁判の「剣」「天秤」「目隠し」の意味を知ろう
今でも正義の女神(ディケー、アストライアー、ユースティティア、ジャスティスとも同一視)は、片手に天秤を、片手に剣をもって、更に目に目隠しをして、世界中の最高裁判所に像が立てられています。
剣は罪人をこらしめるためです。
天秤は秤(はかり)で、どちらの罪が重いかを測るために持っています。
身近な話で例えれば、自動車損害保険(賠責)があります。
こちらは停車していて、そこに車が突っ込んできたから10:0で相手が悪い、こちらも発進していたから8:2など、パーセントの割合で損害額が決まりますよね。
裁判も同じです。
100%その人が悪いということは滅多にありません。誰しも何らかの背景的な事情があります。
だからパーセントで測るために天秤を持っているのです。
重要なのは目隠しをしていることです。
人間が人間をこらしめることはできません。人間に罰を与えられるのは神様だけだからです。
なので天秤で悪い割合を測り、目隠しをして、剣で人間を裁くのです。
クリムトの絵画「法学」では、神話の復讐の女神にそそのかされて天災に巻き込まれた人間が、正義の神の前で苦悩している姿として描かれています。
まとめ
このようにリベラル・アーツを絵画で見ることで学問体系でが分かりやすくなります。
世界最高学府ハーバード大学を筆頭とするアイビー・リーグやイギリスのオックスフォード大学は、このリベラル・アーツ教育の学問体系を基礎にやっています。
日本人に神を信じろとも思いませんし、むしろ日本人は汎神論な人が多いのでリベラル・アーツ教育と親和性が高いと感じます。
ただ日本人もこの世界観がわからないと国際学問の競争においても「学問の基礎が出来ていない」「前近代的」と低評価されて投資もされないのです。