ひきこもり武将の井伊直弼に学ぶ「埋もれた木」としての生き方

政治経済・近代学問

滋賀県の彦根城・埋木舎にて茶会がありました。
国特別史跡の彦根城・埋木舎は、大久保治男(彦根城 埋木舎・当主。駒沢大学&武蔵野学院大学 名誉教授)の所有です。
招待されました。大久保治男の祖先は、藤原氏の末流、大久保忠正(大久保忠世・大久保忠教の従兄弟)が初代です。
私が今回、大久保先生にお会いするのは二度目です。

埋木舎と井伊直弼

井伊直弼公の学問所の茶室(樹露軒)にて。
彦根城・埋木舎茶室にて樹露軒茶会。石州流・井伊大老御流。西郷宗博先生。美味しく頂きました。

大久保家、井伊家、木俣家、新美家、西郷家・・様々な家柄の方がお集まりになられました。

私も含む皇族ネットワークの中でこれだけの多様な人が集まる茶会も珍しくて面白かったです。

御縁があるんだと感銘しました。

武家茶道とは?

茶道流派において、町人茶道の表千家や裏千家には家元制度にあるのに対し、石州流のような完全相伝させる武家茶道があります。

町人茶道では家元制度で「~家」と世襲で継いでいきますが、完全相伝の武家茶道では「~流」と、必ずしも家柄で継ぎません。

剣術と同じように技で相伝していきます。

武家茶道において主に石州流が多数です。
江戸時代前期の大名、茶人の片桐貞昌(かたぎり さだまさ)を祖とします。

賢人な引きこもりの井伊直弼

大久保治男・名誉教授から井伊直弼の生き様の話を聞いてるうちに現代に通じるものと、勇気づけられるものがありました。

井伊直弼は、32才まで超貧困のまま埋木舎(自宅)で引きこもっていました。

しかも17歳から32歳までの15年間を300俵(800万円)で部屋ぐらしで生きたと言われています。
つまり年収53万円、月収4万円で過ごしたのでとても貧困生活です。
殿様の家柄とは思えないほど不遇でした。

「なぜこんな不遇?」
「徳川の江戸幕府の大老(ナンバー2)が引きこもり?」
と思うかもしれませんが、井伊直弼は正室から生まれた子ではなく庶子(しょし)です。
言い方が悪いですが、スペアのストックのような子であり家系の中でも扱いが適当だったのです。

井伊直弼は引きこもっている間、「茶歌ポン」とあだ名されるほどお茶と和歌とポン(能)が好きでした。
それだけでなく禅や、国学、洋学等の学問を極めていました。

相当に博識な文化人でした。

今で言うとゲームをする一方で、本もたくさん読んで勉強するという感じです。
しかし同時に平和主義者であり争いは嫌いました。

そんな引きこもりの井伊直弼がなぜ急に徳川の江戸幕府の大老になったかというと、井伊家本家の跡を継ぐはずだった兄弟が相次いで死んでしまい、井伊家の跡継ぎがいなくなったからです。

30年以上も月4万円で自室で引きこもって過ごしていた男が、急に日本国のナンバー2に大抜擢されたので、正直、本人も嫌だったのではないかと思います。

井伊直弼の辞世の句のレベルの高さ

井伊直弼の辞世の句は、

世の中を よそに見つつも 埋れ木の 埋もれておらむ 心なき身は 井伊直弼

というものです。

「埋れ木」を詠んでいるのは過去に源頼政の歌があります。

埋もれ木の 花咲くことも なかりしに 身のなる果てぞ 悲しかりける 源頼政

「埋れ木で花なんか咲かないで死ぬわ自分」と言う「悲観的な源頼政の辞世の句」に対し、

「埋れ木にいるけど埋もれてないわ自分」と言う「肯定的な井伊直弼の辞世の句」は、対の和歌です。

井伊直弼も分かって詠んでいます。

「世の中から外れていても、埋もれていないんだよ」という、ありのままの現存在を全肯定する歌です。

井伊家の理想とした木俣家

そもそも井伊家は代々、初期の徳川幕府の家臣かつ井伊家の家老だった木俣守勝(明智光秀の重臣)のような大老ポジションを理想としています。

木俣守勝は、南北朝時代に南朝側(後醍醐天皇)側についた楠木正成嫡孫の楠木正勝の子孫です。

この番組資料が分かりやすかったです。

木俣勝守は徳川家→井伊家と家老を継いでいきます。
木俣氏は元は楠木正成の子孫。後醍醐天皇の南朝つながり。明智土岐一族も初代は南朝です。

端的に言うと「源氏を盛り上げよう!」という意識がありました。

井伊直弼も晩期の徳川幕府において同じような理想を持っていたはずです。

なので清和源氏の源頼政(平家の政権下で、大没落した源氏)とは反する歌を詠むことで「源氏は埋もれていない!」と詠ったわけです。

安政の大獄から桜田門外の変のコンボが鬼畜

しかし井伊直弼は、桜田門外の変で水戸薩摩浪士に暗殺されます。

井伊直弼は13代将軍の徳川家定に抜擢され、継嗣問題で紀伊藩主の徳川慶福を推した結果、一橋慶喜を推す一橋派の徳川斉昭と対立を深めました。
そして天皇の勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印してしまい、将軍の継嗣を徳川家茂にしました。
同時に、それに反対する尊皇攘夷や一橋派を100人以上の弾圧をしました。(実際に殺されたのは17人)
これが「安政の大獄」です。

その結果、怒りをかって井伊直弼は水戸薩摩藩に暗殺されました。これが「桜田門外の変」です。

日本史の教科書で見ると「日米修好通商条約みたいな不平等条約に調印しやがって!それに反対した者を殺して逆襲されて当然!」と思うでしょう。

しかし奇妙なのは、井伊直弼は幕府側なので公武合体派。つまり本来は鎖国派であるはずなのです。
それに対して「開国しろ!」と開国派で言っていたのは尊皇攘夷派であったはずです。

なぜ井伊直弼は、開国派の意見通り開国したのに、開国派に殺されるのでしょうか?

一番の理由は、安政の大獄による逆恨みであることは確かです。

しかし井伊直弼は西洋書を読めるほど博識であったため、イギリスやフランス等の欧米列強の状況は把握していました。

日本の鎖国が限界に来ており、下手に欧米列強の条約を断って、武力で制圧されて植民地支配されるリスクも十分に把握していました。

立場上は鎖国派なのですが、内心では開国派であったのです。

開国派に歩み寄る姿勢を取りながらも、日本の旧制度における安政の大獄によって弾圧したせいで、逆恨みを買って桜田門外の変されてしまうという鬼畜なコンボを受けたのです。

尊皇攘夷スペクトラム図

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