アスペルガーの子どもを持つ知人が「最近、東田直樹さんっていう重度の自閉症の方の書いた本を読んでて元気づけられた」と言うのを聞いて、耳を疑いました。
一瞬「(いやそれは何かの、言い間違いだろう・・)」と思いました。
軽度なら兎も角、重度自閉症の場合はコミュニケーションが全くできないことがほとんどで、文字を書いたりすることは困難な場合が多いというのが一般的な認識です。
私は親の都合で幼い時から障害者支援施設で育って、施設でボランティアも実習も度々しているので、自閉症の方とは日常的に接しています。
帰ってから調べてみると、どうやらNHKドキュメンタリーで特集された東田直樹さんという方がいらっしゃるそうです。
プロフィールによると、やはり本自体も文字盤のポインティングや筆談を用いてコミュニケーションを行い、母親が打ち込んでいるとのことです。
逆に興味深くなって早速、著書を購読しました。
跳びはねる思考 会話のできない自閉症の僕が考えていること
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東田直樹氏は「詩人」とプロフィールに書いてありますが本当に詩人でした。
そして分析力が長けていると感じました。
一番、感銘を受けたのは自閉症当事者から見た「時間」と「空間」の認識です。
自閉症には独特の「こだわり」がありますが、それを「世界との一体感」という感覚で統合的に捉えています。
水に漂うように浮かんでいると、自分が生きているのか死んでいるのか、分からなくなる時があります。思考も停止し、自分の体が、ただの物体になって、流されていきます。
事故などで脳機能の一部が損傷されると、自分自身の身体と外界との境目がはっきりわからなくなるケースがあるということが報告されています。
例えば、野球のボールをつかんだ時、どこからどこまでが自分で、どこから先がボールなのか分からなくなっちゃう。
これは普通に考えれば異常な感覚なんですが、脳卒中でこの体験をしたアメリカのある科学者は「世界との一体感を感じて幸せだった」と証言しています。
時間の感覚だってそうです。
今はほとんどすべての人が「時間は一直線に流れ、歴史には過去と未来がある」と理解していますが、中世ぐらいまで人々は
「時間は春夏秋冬でぐるぐる回っているだけ」「時間は昼と夜があるだけ」というように、もっと単純な見方をしていました。「あなたのおじいさんはいつ亡くなりましたか?」と問うと、現代人は「十三年前です」「2001年です」と答えるでしょうが、おそらく古代の人は「田植えの時期に亡くなりました」「花が咲き乱れる時にでした」と言った答え方をしていたのではないかとされています。
人類は近代科学を得たことで合理的なものの見方をするようになり、世界史や日本史という歴史があることを学び、その結果として、今のような世界観を作り出してきました。
でも本当は「世界観」って近代合理主義という単一の見え方じゃなくて、もっと多様で多彩で、そして豊かなたくさんの見え方があったはずなんですね。
この感覚は「悟り」に近いものだと感じました。
正確に言うと哲学者M,プルーストの「瞬間生(レアレテ)」です。
どこか似ていたので思い出したのは、闘病生活の中で書かれた哲学者・古東哲明氏の「瞬間を生きる哲学」でした。
瞬間を生きる哲学 <今ここ>に佇む技法 (筑摩選書)
この中で、哲学者ヴィリリオは「先へ先へ走らせ、追い立てる強制力」を「速度(vistisse)」と看破し、速度によって国家も社会も組織も個人の生活もすっかり背後で操られ、駆動され突き動かされている社会構造のことをドロモロジー(dromologe)と名づけました。
この近代資本主義の構造であるドロモロジーにより、現実をありのままに見ることが困難になりました。
「時間」と「空間」も分からなくなった「世界との一体感」とはまさにこの「瞬間生(レアレテ)」を感じた瞬間であったのだろうと思います。
東田直樹氏の著書には、なるほど自閉症はそうかと気付かされると同時に、もっと大きなことを悟らされたような気がします。
跳びはねる思考 会話のできない自閉症の僕が考えていること
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これとは別に13歳のときに書いた著作『自閉症のが跳びはねる理由(英語版)』が、2013年夏にデイヴィッド・ミッチェルらに英訳されて英国で話題となりました。
その後、各言語に翻訳されて現在22カ国での出版が決まっています。
「自閉症なのに本が書けるんなんてすごい」という同情的な上から目線での見方ではなく、東田直樹氏から人間本来の純粋な感性に触れて頂きたいと思います。
自閉症の僕が跳びはねる理由: 会話のできない中学生がつづる内なる心
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