「オリンピック始まったからには楽しまないと」の罠~発達障害か人格障害か~

心理学・精神医学

人流が拡大して感染症が広がる最中「オリンピック始まったからには楽しまないと」という人がいます。
これは
「戦争が始まったからには人殺しを楽しまないと」という嗜虐的な自分に酔っている中学生みたいな幼児的な行動です。

これは「関係性・想像力の欠如」です。

具体的には発達障害か人格障害かでよく語られます。

そもそも日本のためのオリンピックではない

2021年東京オリンピック五輪が世界中で感染症が広がる最中、開催されました。
最高峰スポンサーも降り、無観客で開催されました。
背景には、これまで頑張ってきた選手の努力を讃えるために…なんて政府の思いは微塵もなく、
「とにかく日本人の税金を外国の要人に配って、自分だけキックバックをもらいたい」という汚い五輪関係者・議員たちの利権がありました。
そのため
IOC国際オリンピック委員会の大スポンサーであるアメリカのNBCの放送局に独占配信させ、
日本なのにスポーツ開催時間をアメリカ時間を標準にして、
大会中のクレジット決済はアメリカのVISAのみに限定し、
持ち込みの飲料はアメリカのコカ・コーラに限定させ、
規制されているはずが特別にアメリカのインテルのドローンを日本の空で飛ばし、
開会式での入場もアルファベット順のはずなのにアメリカを最初の方にせずにNBCが視聴率が取れるように特別優待で最後にしました。

一体どこの国のオリンピックなのか奇妙な仕上がりになりました。

オリンピックと感染症は関係あるに決まっている

さて2021年7月22日から開催されたオリンピックですが、この日は平日の木曜日です。
しかし国はオリンピックのために22日~25日まで祝日の4連休にしました。

そしておよそ10日で東京都の感染者が1000人を超え、2日後には3000人を超える感染爆発をしました。

22日からオリンピックが開催でしたが、もちろんその日に選手が来るわけではありません。
7月の上旬には日本に来ています。

そして来ているのは選手だけではありません。
応援する家族や親戚や友人もVIP待遇で招待されます。また各国の要人とその家族や親戚もVIP待遇で招待されます。
すでにそれは22日以前から始まっており、準備でもオリンピックによる人流が大きくなる要素は山ほどありました。

誰がどう考えてもはっきりと感染爆発と関係があるに決まっているのです。

逆に「オリンピックがあろうともなかろうとも変わらなかった」という人もいますが、それなら「なければもっと減らせた」のです。

しかしなぜか「関係ない!」と高らかに主張している人がいます。

これは発達障害や人格障害の症状に極めて酷似しています。

「見えてさえいない」のか「見えてはいるけど見ないふりをする」のかの違い

発達障害や人格障害は両方とも「想像力の欠如」が起こります。

同じ想像力の欠如でも「見えてさえいない」のか「見えてはいるけど見ないふりをする」のかの違いです。

複数の事象の動態的な関係性が認識されないアスペルガー的なものか、

見えていても認めたくないので見下してフタして「俺TUEE」する自己愛性人格障害的なものか。

この「違和感」を区別する必要があります。

アスペルガー的な「見えない」

私には幼少期からの気の知れたアスペルガーの友人がいます。
いつもの彼のマシンガントークを思い出しました。
彼はその中で「カレー」と「ライス」を「無関係」と区切りを入れていました。

そのため
「カレーライスは存在しない。なぜならカレーとライスは何の関係もないからだ」という奇妙な話をよくしていました。

こういうとき「関係性と想像力の欠如」をまず疑います。
それがアスペルガー的な世界観なのか、自己愛性人格障害的な世界観の起因なのか。
後者だと「カレーライス存在派はバカだ」という見下しが必ず入ります。

自己愛性人格障害的な「見えないふりをする」

人格障害の場合は、見えているのに見えないふりをします。
その根拠のなさを「見下し」でカバーしようとします。

もちろん発達障害やアスペルガーの上にこの人格が乗ってくることもあります。

「すべて関係ない」という事象を区切るアスペルガー的な基盤の上に
自分の好きなものだけは関係あるという自己愛をブーストさせてくると、恐ろしく傲慢になるのです。

論理が通じないだけなのに、周りからは「一貫性があって芯がある」と勘違いされたりします。
彼・彼女らを信じてついていくと裏切られるのは「関係ない」が基礎にあるからです。
それで本人も「なぜか人に好かれない」と悩むのです。

関係性に気づけないもったいなさ

彼・彼女らと会話していると、とりあえずカレーとライスの間にタグとノードリンクを付けようかと抽象的な空間的な作業をしていくのが楽しいはずなのdす。

そして科学研究の捨象モデルと相性は良いので科学研究者には向いています。
しかしやっていることは単なる固執なのです。
例えば、カレーの研究、ライスの研究になってしまい、一生カレーライスに辿り着くことはありません。

分野の横断縦断に何の広がりもなく、可能性がひたすらに閉じてしまうのがとてももったいないのです。

見える可視化が必要

「コロナと五輪関係ない」「感染者と死亡は関係ない」と聞くたびに、
アスペルガー的な世界観から来る関係性と想像力の欠如による会話の「違和感」しか感じないので、やはり物事の動態的な可視化が大切だと感じます。

例えば、重症化までのタイムラグが数週間あるのに「陽性者が増えたのに重症化してない!ワクチンすごい!オリンピック関係ない!」という人たちは、確信犯なのか、この一年半、何を学んできたのかなと思います。
母集団が増えたらその後に増えるのは分かりきっているからです。

病院がコロナだけで満床になって逼迫するのではなく、総合病院は平時でも満床なのにコロナ患者「も」合わさるので、
ゲームセンターのメダル落としゲームみたいに、本来助かるべき人がふるい落とされるのがとてもまずいのです。

その「全体像」の関係性を想像しなければいけません。そして可視化できればなお良いです。

ワクチンと自己愛を混同した認知バイアス

またワクチンと自己愛を混同すると認知バイアスがかかります。
・感染者が増えても「減った、この程度で良かった」と認識され
・認知の固執により「オリンピックとは関係ない」と関係性と想像力の欠如が起こり
・その根拠のなさを補うために反対論者を感情的に見下す

までワンセットの典型的な思考回路に陥ります。

これで自己防衛ができればいいのですが、本来あるべき問題を見えないようにしているだけなので、必ず後でジリ貧になって無理が生じてしまします。

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