「批判はいけない、優しく生きよう」という優しい人がたまにいます。

本当にその通りです。
しかし、うつ病のスタートラインがその抑圧の発想から始まっています。

他人の目を気にしすぎて、遅かれ早かれ耐えきれず、悪い方向で他人と不幸自慢チキンレースを始めて「どうせ誰も分かってくれない」と自分他人共に攻撃してクラッシュします。

ガス抜きして丸くなった先にしか本物が見えてこないのです。


「悪口はいけない、批判はいけない、優しく生きよう」の罠

「悪口はいけない、批判はいけない、優しく生きよう」が泣き寝入りから抑うつ病のスタートラインです。

「自分が悪く見られたら嫌だ」
「悪口を言う嫌なあいつみたいになりたくない」という気持ちはとても分かります。

一方で、長期的な悩みとは「”それは私は違います。” “私はそれはしません。”と一言でも言い返せなかったこと」が発端になります。

とはいえ「(特定の)この人が嫌い、嫌だ」と直接言ったとしても、言わないまま黙ってフタをしても、またすぐ似たような人に会うことになるのです。

自分が学んでないからです。

大切なのは「一般論に悩みを変換すること」

大切なのは「一般論に悩みを変換すること」です。

悩みの解消法は自分ひとりで何度も思いを巡らすことではなく、その体験を他人に共有してもらうことで「濃度を薄める」ことにあります。
そして最終的には「気にならなくなる」のです。

ただし単純に「相手が悪い」「相手が悪い」だけでは薄めたことになりません。

「一般化」や「社会化」されていないからです。
他人に共有してもらおうとしても「あなただけの体験だったんだね(私にはその苦しみは分かりません)」で自分に戻ってきて抱え込みながら苦しむからです。


「一般化」や「社会化」とは?

「一般化」や「社会化」とは、「他の人だったらどうするんだろう?」「社会的にはどうなるんだろう?」と疑問に思うことからスタートします。

とはいえイメージしにくいと思います。

例えば、交通事故にあって「相手がやった、相手が悪い」と悪意を証明しようと他人を責め続けても何の改善にもなりませんよね。
自賠責(じばいせき)で相手が悪い:自分が悪いで10:0だったな、9:1だったな、7:3だったな…と状況から割合で考えます。

自分にも責任があった、と考える必要は一切ありません。
自分が何をしていなくても、あいてがあおり運転のように攻撃してくることもあります。

そうではなくて、
「みんなはこういう時にどうしているのだろう」
「今後こういう運転で、こうこられて、こうやられて損を被ったら、こうしないように心がけよう。」
と悩みを社会化して一般論に変換することが大切なのです。

「他人の悪口はいけない=国や社会の悪口を言ってはいけない」と拡張してはいけない

たまにこの「個人の悪口はいけない」を「国や社会の悪口を言ってはいけない」と政治や経済や生活問題まで拡張して言ってる人がいます。

これが大間違いです。

なぜなら「一般化」「社会化」されないからです。

例えば、自動車事故にあって、「相手の悪口はいけない」を拡張して「自賠責保険会社に連絡してはいけない」「訴えてはいけない」「警察に連絡してはいけない」としたら、ひたすらに自分で抱え込んで泣き寝入りすることになります。

これを個人で置き換えると
「問題」とそれに付随する個人の「悩み」と混同しているのです。

火事が起こったら、「火を消してはいけない」を拡張して「消防車を呼んではいけない」と思い込むようなおかしなことです。
消防車を呼んで(一般化、社会化)して、火を消します。

火事が起こったら
・一般的にはどうするんだろう
・みんなはどうするんだろう
と疑問に思って、→なるほど。消防車を呼べばいいのか、と全体に火事を訴える必要があるからです。

そして次に「火事が起こった場合は、こうしたほうがいい、起こらないためにはこうしたほうがいい」と自分が発信することが大切です。

良くも悪くも政治や社会を問題視して意見できることは、憲法の自由や民主主義の自由が機能している証です。
これがなかったら統制主義、中国や北朝鮮のようになってしまいます。


とはいえ国や社会に問題ばかりを投げかける人になりたくない

例えば、マスコミの国批判や国会デモを見て「なんでも批判している。あぁはなりたくないな。」と冷笑する人もいます。
確かにその通りなのですが、
これは「平和で良かった」と平和を測るバロメーターとして感受するのが正解なのです。

別にどんな政権であっても、国民が批判できるのは言論の自由が守られているからです。
国への国民の監視機能が働いているからです。
これがなくなって中国や北朝鮮のようになった状態のほうが怖いのです。

国の性質上、放って置くと必ず統制主義へ向かってしまいます。

なので社会や国への批判は「平和で良かった」と平和を測るバロメーターとして見る必要があるのです。