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君の名は。を2度視聴しました。

一週目は昼間行って20人くらいだったのに、今回はレイトショーでもほぼ満席でした。

相変わらず最初から最後まで一貫して、岐阜県の飛騨の方言でした。

私の地元すぎて違和感を感じないくらいしっかりした訛(なま)りだと感じました。

監修がしっかりしているのでしょう。

さて私は2回目の視聴で「何で今まで自分は1回目で気付けなかったのか」と後悔しました。

1回目はふーんくらいに乾いて見てしまったのに、2回目みて色々再発見して泣いてしまいました。
1回目の時は何も考えてなかった自分を反省しました。
これは心理構造から伏線まで見事な作品なのです。

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一つ目に登場人物の心理的背景と「なぜ入れ替わったのか?」ということ。

二つ目にその治療方法です。

「中学生の瀧君に三葉が戻って電車の別れ際に組紐を渡す」までの「奇蹟」。

「美術がきれいだなー」とか「いつ何回入れ替わったのか」などの表面的な話なの置いておいて裏の話を解説します。


君の名は。の心理的構造と入れ替わった理由

心理学的に確実に二人が共通していることがあります。

それは瀧も三葉も2人とも「母親がいない」ことです。

心理学では「母親像が内在化されてない」。

簡単に言うと、

乳幼児期に母親が亡くなっているので
「お母さんという存在がどういうものか分からない」のです。

心理学者ハインツ・コフートによれば、

母親の役割は「共感の鏡」(ミラー)と言われています。

「共感の鏡」(ミラー)とは、「どんなことにも味方になってくれて共感してくれる」ことです。

逆に父親の役割は「理想」と言われています。

「理想」とは、「人生とはこういうものだ」と理想(目標)を示してくれる人生の羅針盤的存在です。

この「鏡」と「理想」の役割をするのは誰でも良いです。

母親は女だから、父親は男だからとか性別は厳密には関係ありません。

近所のおじさんでもおばさんでも隣の人でも友人でも良いです。

「鏡」と「理想」この2つの役割があることで、中核的な自己が成熟して心理的に安定した大人に成長できると心理学では考えます。

「鏡」と「理想」がないとどうなるのか?

逆に「鏡」と「理想」が抜け落ちた子がどうなるかのでしょうか?

「共感」の役割がない人は「理想だけは高いけど内容は非現実的。行動も競争的で攻撃的すぎて共感できない。」という性格の人が多いです。

「理想」の役割がない人は「共感的でやさしいけど行動力にかける。現実的だけど弱々しい。」という性格の人が多いです。

瀧君の場合はどうでしょうか?

瀧君の場合、母親はいませんが父親はいます。

瀧君は「理想はあって男らしい」ですが、友人を断ってバイトに生きる意味を見出したりと仲間を思う共感能力は低いです。

しかし瀧君は、家庭内で父親のために家事をしたりと「母親的な役割」を担っています。

三葉ちゃんの場合はどうでしょうか?

三葉ちゃんの場合も、母親はいませんが父親はいます。

正確には「母親(二葉)の記憶」は、乳幼児期に死に別れているので「ほぼありせん」。

しかし、代わりにおばあちゃん(一葉)の下で育っているので母性性(共感能力)は持ち合わせています。

性格も瀧くんと共通しています。

「理想はあって男らしい」のです。

これは曲がりなりにも父親が存在しているためです。

しかし「母親的な役割」(共感役割)は担っているものの、実際の母親は知らないのです。

共通点は二人とも「母親がいない」という「カタワレ同士」なのです。

家庭内で「母親の役割」の役割を引き受けさせられています。

瀧君と三葉ちゃんの違いは父親像にあるのです。

三葉ちゃんの父親は生きています。

しかし確執があり関係断絶しています。(民俗学者→宮司→妻が死んで政治家という経歴)

ここだけ瀧くんとは正反対です。

瀧君は父親とは仲良くやっています。しかし母親はいません。

三葉ちゃんは父親と仲悪いです。しかし代わりにおばあちゃんがいます。

このように入れ替わりを通じてお互いの足らない部分を「補完」しているのです。


カタワレ同士だから分裂してしまった

瀧くんと三葉ちゃんは「カタワレ」だったので、高校生になって性格分裂してしまいました。

それが解離性同一性障害(多重人格)として表出するストーリーになっています。

それぞれの別の人格のことは覚えてはいますが統合は出来ていないという状態です。
(実際に重度な症例だと前の人格のことも覚えていません。)

母親像をなくした二人だからこそ、
二人とも奥寺先輩に母親像を投影したわけです。

二人とも奥寺先輩を好きになってしまったのです。

ストーリー上では、元から三葉ちゃんが中学生の瀧君に電車で会っているのでその時にお姉さん好き属性を植え付けたとも解釈できます。

特に三葉ちゃんは父親との確執が強かったので、瀧君で男性性(父性性)を内在化させる必要があったのです。

まったく意味のない入れ替わりでななく、心理学的に意味ある入れ替わりだったのです。

自我統一するまでの心理療法としての退行催眠

瀧君が岩の口噛み酒を飲んで、その場で転倒し、美しい抽象的な表現描写が劇中で入ります。

あれは「過去退行催眠療法」です。

その場面では、彗星が分かれたのを魂のソウルメイトのように(そもそも糸森は隕石で誕生した)描写し、瀧の体で三葉のメンタルを過去退行させて人生を再体験します。

生命の誕生、へその緒、運命の赤い糸と暗喩的に描写して行くシーンがあります。

なぜこんな退行催眠治療する必要があったか。

テーマ曲の「前前前世」。挿入歌の「豊饒の舞」で気付くべきでした。

この作品は「解離性同一性障害」を「前世療法(過去退行催眠)」によって治療することがテーマとなっているのです。

元は退行催眠→生まれ変わり→唯識へと展開していく三島由紀夫の法相宗の唯識「豊饒の海」が根本にあります。

挿入歌の「豊饒舞」の元ネタは三島由紀夫の「豊穣の海」です。

「豊饒の海」は、法相宗の寺の唯識論(種子が薫習して生まれ変わる)の話です。

輪廻転生を繰り返す主人公に対して、途中で「夢でも見ていたのか」という否定に入るどんでん返しがあります。

この「夢でも見ているのか」というセリフも、三葉ちゃんのおばあちゃんの「あんた今、夢を見とるなぁ」というセリフと同じです。

三島 由紀夫 の 暁の寺―豊饒の海・第三巻 (新潮文庫)

もう一つ、君の名はで元ネタに使った本だと確信したのは稲垣勝巳氏の著書です。

「ムー」好きな新海監督が100%読んでいた本だと思います。

稲垣勝巳 の 「生まれ変わり」が科学的に証明された!-ネパール人男性の前世をもつ女性の実証検証

映画企画・制作期間の前後の月刊ムーで「前世療法」で特集されたのは稲垣勝己氏しかいません。

間違いなく新海監督は世界観に取り入れました。

この著書の中での「魂のミラーボール仮説」です。

「魂の表層に多面的に前世人格が貼り付いている」という仮説を稲垣勝己氏は前世療法の中で見出しています。

稲垣勝巳氏によれば魂の表面にいろんな過去の人格が貼り付いているとしています。

それを過去退行によって知ることで今の心理的問題が解決できるというのです。

稲垣勝巳 の 前世療法の探究

実際に、君の名はの映画の序盤ではテッシが「月刊ムー」(そもそも君の名の映画のスポンサーです)を片手にアカシックレコードとエヴェレット多世界解釈を冗談交じりに語るシーンがあります。

てっしは土木建設社長の息子でムー愛読者。

これは新海監督本人の学生時代まんまの人物だと本人も言っています。

入れ替わりつつ、お互いに絶望的な未来を見て、
それを回避するために口噛み酒で過去退行催眠して生まれ変わり、未来を変えるというのが君の名はの真のストーリーなのです。


退行催眠のリアリティ

退行催眠中は、記憶がバラバラに保存されており、それを再合成させて本物そっくりのリアリティを再現します。

瀧君は三葉ちゃんの記憶を口噛み酒を飲むことで一度リセットし、バラバラのところから再合成させて自分の中に取り込んだのです。

一方で「瀧君に取り込まれしまった三葉ちゃんの体験」は、すでに瀧君にとっては「自分の体験」となるので「忘れるしかない」のです。

例えるなら2人がそれぞれで自分のパズルの作品を作っていたとします。

しかし自分のピースが一部、相手のピースに混ざっていました。

これではお互いにパズルを完成することができません。

なので二人とも一度、今まで作ったパズルを壊してリセットし、2人で2つのパズルを完成させようとするのです。

これが「再合成」です。

最終的にお互いにパズルのピースの埋め合わせをしたので、
「統合されて自分の体験となった」ということです。

まさに「彼誰時」(かれだれどき)です。

糸守町では方言でこの時間帯を「カタワレ時」という岐阜飛騨弁の方言設定を利用して「カタワレ(片割れ)」。

つまりお互い「失った母親の片割れ」。

男性性と女性性を失った片割れ同士なので、入れ替わって退行催眠して自我統合して大人になった。
という自我同一性確立の話なのです。

「君の名は」は「唯名論」の普遍論争

「君の名は」のタイトルからも分かるように裏には「唯名論の普遍論争」があります。

「唯名論」とは神様のような絶対的で普遍的存在を否定して、「単に名前が存在しているだけだ」という説です。

「君の名は」の作品の中では「普遍的存在を否定して名前(記号)があるだけだ」という過程を、「帰納法的プロセス(断片情報を集める)」から「結び(縁)」という形で表現しているように考えられます。

科学の歴史では、唯名論から記号言語学、認知科学へと重層的な世界認識の変化がありました。

帰納的に記憶の断片を再合成させて、前世療法のごとく相手の生き方を追体験することで最悪の未来を回避するということを「君の名は」では表現しています。


「君の名は。」は「まどマギ」の日本版である

君の名はのストーリー構造は、最近だと映画「魔法少女まどか☆マギカ叛逆の物語」が最も近いです。

「まどマギ」が徹底した「キリスト教」の話だったのに対し、そのプロットを「仏教」に置き換えたのが「君の名は」です。

宮水三葉ちゃんは、ラストでリボン交換してまどマギの「暁美ほむら」そっくりになりました。

展開までそっくりです。

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分かる人には「あれ、暁美ほむらとそっくりだ」と気付くはずです。

監督も知らないわけもないです。

宮水三葉ちゃんが「暁美ほむら化」することで、瀧君(まどか)を探して「全員が生き残る世界線」をエヴェレット多世界(確率宇宙)の中で情報共有(未来の瀧と過去の三葉で分裂した自我を統合させた)して心理的に浄化されるという意図があったのです。

私も、鹿目まどかの声優の悠木碧が出ている時点で、まどマギ叛逆のオマージュなんだともっと早く気付きたかったです。

主要人物は俳優、周辺人物は声優。

この構造もジブリの宮﨑駿と同じです。

声優だと演技臭さが出すぎてファンタジー性が増してしまうためです。

下手でもメインは素人や俳優にするわけです。

作品を見る時は、何に似ているかだけではなく、
ストーリー論理的(神学的・神話的)構造、
母性性と父性性等の心理的構造、
それの治療法までを重層的に解釈して、
それを時間軸で追っておく必要があります。

同じような話の構造の洋画だと「マトリックス」や「インセプション」が近いです。

日本のアニメだと「まどマギ」に加えて「シュタインズゲート」や「クラナド」や「ひぐらしのなく頃に」「ジョジョの奇妙な冒険7部」が近いです。

過去記事↓

「君の名は」と「聲の形」比較考察まとめ~父子家庭と母子家庭の思春期葛藤~
https://libpsy.com/kiminonaha-vs-koenokatachi/4175/

CLANNADの考察・解釈レポート(心理学的視点から) ネット功徳な日々
https://netkudoku.seesaa.net/article/224631983.html
ひぐらしとCLANNADとジョジョの奇妙な共通点
https://netkudoku.seesaa.net/article/143308512.html

君の名は。総評~FF10と唯名論~
https://libpsy.com/kiminonaha/3961/