自己愛性は当然、自分以外はゴミ以下なので自分を人類進化の頂点の教祖とするのだけど、同時に自分以外に従う者を嫌うので、他の宗教やスピ系を血眼になって誹謗中傷する。

その弱者に寄り添わない行動で人格と思慮と人生経験の浅さが際立つので、人が離れていく。負の循環。


安倍晋三銃撃事件の時に久々に出た社会対立

安倍晋三銃撃事件のときに、安倍も山上も統一協会と知り、共産党・理系科学(左翼)vs新興宗教(日本スピ保守)の古き社会対立が久々に公然と浮上したのに、
「左翼とスピ系叩く安倍晋三様がすごくて俺は保守で理系なんだ」と矛盾だらけに解釈していた自己愛が認知的不協和に。

右にも左にも、その方向へ振り切れれば良いのに思考に矛盾をかかえたまま、どちらも軽視する権威主義へ向かいアノミーから精神病へ向かう。
リバータリアンへ向かっていれば救われたろうに。リバータリアン心理学。

心が弱るとやさぐれたサルトルになる

案の定、臨床事例でも、心が弱るとニヒリズムから実存主義へと傾倒していく。ドフトエフスキーやカミュやサルトル、ヘーゲル、ニーチェ、キルケゴールあたりを転々と読み漁る感じになる。いや、まだそれで救済されればそれでいいのだが、その先の政治的な思想・歴史背景も知っておいた方がいい

岡田 尊司 の 人格障害の時代 岡田精神科医の本の中で、『人格障害はサルトルの「(無神論的)実存主義」』と指摘されていた。そのニヒリズム(虚無主義=”無”信仰)は学生運動・共産主義(無神論・科学万能主義)のまさにそれであろう

神学的(数学的=論理的)な土台の上で整理していけば、こういうことも整理できてくるはずだが、やはり先日の岡田尊司・医師の引用のように、境界性系の人格障害(サルトルの実存主義=空虚感=”無”信仰)が、二分法思考(有vs無、どちらか偏向)→他者軽視へと、感情的に結びついてしまうのだろう

つまり、唯物論vs観念論の二分法の中で、人格障害は唯物論の方に傾倒・執着している、ということ。そして相反する観念論的なものを敵視して軽視する。どちらか一方しかないと決め付けるの二分法思考だが、サルトルの実存主義から考えれば、その空虚感こそが唯物論”信仰”へと親和性が高い。

ニーチェは一度ニヒリズム(虚無主義)になってみて、そこからの克服として「超人」の生き方を説いたが、サルトル実存主義=(境界性の)人格障害の場合、ニヒリズムで留まったままでそこからの建設的な提案はなく、他者軽視と破滅的な考えしか持たない。