明智光秀が本能寺の変へ「行かなかった」という文献が発見されました。
ドラマなどでは明智光秀が直接に本能寺の変へ向かうシーンが描かれることが多いので意外ですね。
明智光秀は本能寺の変へ行ってない
古文書は江戸時代前期に、加賀藩(現在の石川県と富山県の一部)の兵学者、関屋政春(せきやまさはる)が書いた「乙夜之書物(いつやのかきもの)」(金沢市立玉川図書館近世史料館所蔵、3巻本)。
利三と、光秀重臣の明智秀満(ひでみつ)が率いた先発隊2千余騎が本能寺を襲い、光秀は寺から約8キロ南の鳥羽(京都市南部)に控えていたと書かれている。
奥書(書き入れ)には、関屋が息子のために書き残し、他人に見せることは厳禁とある。萩原さんは「関屋の自筆本で後世の加筆もないとみられ、事件に参加し、重要情報に触れ得る立場の人物が情報源であることから、信頼性が高い記述ではないか」とみる。
(中略)
光秀が本能寺に行かなかったことについて、本郷和人・東京大史料編纂(へんさん)所教授(日本中世史)は「十分あり得ることではないか。光秀自身が最前線に赴く必要はないし、重臣を向かわせたのも理にかなう」と話す。(編集委員・宮代栄一)明智光秀は本能寺に行かなかった?家臣が実行、古文書に 2021年1月3日 20時47分 朝日新聞
光秀は寺から約8km南の鳥羽(京都市南部)に控えていました。
このことは明智光秀の子孫の明智憲三郎氏の著書にも書かれています。
(参考文献)
完全版 本能寺の変 431年目の真実
明智光秀は本能寺へ行かずに何をしていたのか?
ここで信憑性が出てくるのが本能寺の変に参加した武士・本城惣右衛門の「本城惣右衛門覚書」です。
今までは話のつじつまが合わないので否定されてきましたが、近年は資料が出るほど彼の言っていたことが正しいのではと再評価されています。
記録は「本城惣右衛門覚書」と呼ばれ、戦国時代から江戸時代初期、丹波国(京都府中央部と兵庫県東部)を拠点としていたとみられる武士・本城惣右衛門が、晩年の1640年、若い頃の戦功を書き残したもの。天理大付属天理図書館が所有している。
(中略)
本能寺の変について「信長様を切腹させようとは夢にも思わなかった」
文脈的に京都へ向かう理由について、惣右衛門が「上洛中の家康への援軍に変更された」と理解していた
(中略)
改めて記録を検討すると、文脈的に京都へ向かう理由について、惣右衛門が「上洛中の家康への援軍に変更された」と理解していたのが正しいとわかった。信長切腹「夢にも思わなかった」…本能寺の変、明智軍の武士が述懐 読売新聞 2020/11/02 07:31
明智軍は明智光秀を信頼していました。
そして明智光秀は自分を認めてくれる織田信長も信頼していました。
となると「信長を倒す」と言ったところで部下はついてきてくれません。
だから家康の援軍を口実として使って本能寺の変を起こしたのです。
本能の変、明智軍が「信長を倒す」で動くはずもなく。従軍記録の通り、最初から口実は家康。
信長を殺した男 6巻 https://t.co/dWhTr0JBJR pic.twitter.com/2pwEJkTJiN— tokey_neale(tokita kenichi 時田憲一) (@tokeyneale) November 2, 2020
(参考文献)
信長を殺した男 6巻 https://amzn.to/3mIozQF