前回
明智光秀の集結の号令「土岐一揆」とは?
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本能寺の変の真相、明智光秀を語る際に、土岐一族なくては語れません。
よく何度も何度も「なぜ明智光秀は織田信長に謀反したの?」とミステリーのように言われ、最も浅はかな意見だと「短気な性格だったから」だとか「天下を狙う野心家だったからだ」とか言われます。
例えば「前田利家は兜に愛と書いてあるからみんなを愛していたんだ!」(実際は愛染明王=不動明王の炎の象徴)みたいに、そんな現代の価値観で書き換えてはいけません。
真相はどうだったのか?
明智光秀の末裔・明智憲三郎氏の著書を参考に掘り下げていきます。
明智憲三郎・原作 藤堂裕・漫画 コミックス「信長を殺した男」(ヤングチャンピオン連載。本能寺の変431年目の真実の漫画版)超おすすめ。
明智憲三郎 織田信長 435年目の真実 (幻冬舎文庫)
明智憲三郎 本能寺の変 431年目の真実 (文芸社文庫) ベストセラーとなった明智憲三郎氏の名著。
当時は「血族」とそれを繋ぐ「家」が最も重要視された時代だったことを忘れてはいけません。
明智光秀の動機は「土岐一族」で一発で説明がつくのです。
かつて清和美濃源氏・土岐一族の土岐頼遠は、上皇の「院」と「犬」を掛け、上皇に弓を射りました。
しかし時の足利尊氏以上に強かった土岐一族だったので、土岐頼遠は細川家に斬首されましたが、それ以外は無罪放免され、話はなかったことのように黒歴史にされたのです。
定説の中でも、今に至るまで天皇に謀反したということで土岐一族に関してはあまり触れたくないのです。
光秀は土岐一族です。
光秀と交流の深かった公家の立入宗継(たてりむねつぐ)が「美濃国住人ときの随分衆なり」(立入左京享入道隆佐記)と、はっきり土岐一族であると紹介しています。
本能寺の変直前に明智光秀が詠んだ土岐一族の歌
明智光秀は本能寺の変の前に、京都の愛宕山の愛宕神社本社で連歌会を催しています。
この神社は出陣する武将たちが戦勝祈願する愛宕神社の将軍地蔵に向かって戦勝祈願を催す場所なのです。
偶然行ったわけではなく、戦をする時に行く場所なのです。
愛宕信仰と言えば、本山は京都の愛宕山ですが、本能寺の変の際に、明智光秀が必勝祈願に京都の本社で連歌を詠んだ事で有名です。
この連歌にて光秀は
「ときは今 あめが下なる 五月哉(さつきかな)」
と詠んでいます。 [信長公記:岡山大学附属図書館池田家文庫(太田牛一自著の原本:池田家本)]
表向きの意味としては、「時は今、雨の下にいる五月だ」というありのままの意味です。
しかし愛宕山神社で戦勝祈願が題材テーマにしていることを鑑(かんがみ)みれば、
「時」は「土岐」に通じ、「あめ」は「天」、「下しる」で「天下」、「五月哉(さつきかな)」は「5月」という季節を示します。
つまり
「土岐はこれから天下を取る」
という意味です。
もう少し歌の作法で掘り下げてみると、「五月雨(さみだれ)」は「強い雨」という意味合いが含まれており、「苦境」の様子を表現する季語です。
よって
土岐氏は今、この降り注ぐ五月雨に叩かれているような苦境にいる5月である(6月にはこの苦境から脱したい)
という意味も含んでいます。
何度も歴史から消された明智光秀の詠んだ土岐一族の歌
連歌は1人目「発句」→2人目「脇句」→3人目「第三」の3つで成り立ち、最後に「挙句」でしめます。
その間、同じテーマを継いでかなければなりません。
この時の3人が「明智光秀」、愛宕西之坊威徳院住職の「行祐」、連歌師の「里村紹巴(さとむらじょうは)」です。
発句
ときは今あめが下なる五月哉 光秀
脇句
水上まさる庭のなつ山 行祐(西坊)
第三
花落つる池のながれをせきとめて 紹巴
[信長公記:岡山大学附属図書館池田家文庫(太田牛一自著の原本:池田家本)]
と「発句」、「脇句」、「第三」と続けました。
そして最後に「挙句」として光秀の嫡男の光慶(みつよし)が
挙句
国々は猶のどかなるとき 光慶
と詠みました。
表向きの意味としては、
時は今、雨の下にいる五月だ
折しも五月雨が降りしきり、川上から流れてくる水音が高く聞こえる夏の築山
花が散っている池の流れをせきとめて
[島津忠夫校注「連歌集」]
です。
しかし戦勝祈願を共通テーマにして詠んでいるので、
土岐氏は今、五月雨に叩かれているような苦境にある五月だ(六月になったら脱したい祈願
土岐氏の先祖(水上)よりも勢い盛んな(夏山のような)光秀様(そうであるから祈願は叶うと激励)
美濃守護職を失った(花落つる)池田氏の系統(池の流)をせきとめて(明智氏が代わって土岐氏棟梁を引き継げばよいという激励)
となります。
そして最後の光慶は、
領国に安寧がもたらされますように 光慶
…と、
ここでもわざわざ親の呼んだ発句の「時は今」から、挙句として「とき」=「土岐」を掛けています。
「韻を踏む」ことで締まりを良くしています。
最初が「土岐」で始まり、最後も「土岐」で終わっているのです。
「挙句」は連歌作法として事前に用意しておくものなので、わざわざ国の話を出すのは思いつきではなく事前に打ち合わせていたことは間違いないです。
何度も歴史から消された「時は今」の愛宕山連歌
発句
時は今 あめが下なる 五月かな 光秀
脇句
水まさる庭の夏山 行祐
第三
花落つる池の流をせきとめて 紹巴
このような上記の愛宕百韻と呼ばれる連歌を記載しましたが、この連歌は歴史から何度も消されようとしました。
消されて、改ざんされてきたのです。
上記が最も正しい愛宕連歌であるという根拠は、この歌が何度も改竄されて書き残された歴史が物語っています。
愛宕神社に奉納された愛宕百韻は江戸時代に火災で消失していますが、写本九本が現存しています。
漢字やかな文字など微妙な違いはあるのですが文字としての意味は同じです。
しかしどうしても納得できない重要なところが何度も改竄されているのです。
それが「信長公記」プロジェクトの画像解析から明らかになったこと。
信長公記の中でも岡山大学附属図書館池田家文庫(太田牛一自著の原本:池田家本)は特に文字を何度も書き換えた箇所があります。(「織田信長という歴史」金子拓 著)
それが「下なる」「夏山(なつ山)」「池の流れ(ながれ)」の部分です。
豊臣秀吉の命令で太田牛一が書き換えた愛宕百韻
光秀の発句は「下しる」と「下なる」と書き写されたものがあります。
「下なる」となると「天下に付き従います(信長様に従います)」となり受動的に、「下しる」となると「天下を治めます(私が天下を治めます)」と能動的になります。
九本ある愛宕百韻写本のうち、発句を「下なる」と書いたのは続群書類従所収本、京都大学付属大学所蔵平松本、大阪天満宮所蔵本の三本のみ。
発句が「下なる」でも「下しる」でも脇句・第三は九本ともに同じ句です。
問題は全然違うことを書いているものがあります。
それが豊臣秀吉がお抱えの著述家である太田牛一に書かせた「惟任退治記」と一部の「信長公記」です。
発句
ときは今あめが下知る五月哉 光秀
脇句
水上まさる庭のまつ山 行祐(西坊)
第三
花落つる流れの末を関とめて 紹巴
となっています。
「惟任退治記」「信長公記」のいずれも明智光秀の発句は「下しる」と書いてあります。(「信長公記」は手書きの写本で、微妙に内容の異なる原本が多数存在します。)
それ以上の問題は、脇句、第三です。誤りだらけでデタラメすぎます。
「夏山」→「まつ山」
「池の流」→「流れの末」
となっています。
なぜ「信長公記」の「池の流」が「流れの末」の方が誤りかと断言できるかと言えば、「夏山」が「まつ山」が連歌の規則に反しているからです。
「脇句」は「発句」と同じ季を詠まなけばなりません。
発句が「五月」と言ったら夏の季語なので、「まつ山」は季語ではなく「夏山」と詠まないといけないのです。
なぜ愛宕百韻を改ざんしたのか
愛宕百韻を書き写した豊臣秀吉のお抱えの著述家である太田牛一は「下しる」「まつ山」「流れの末」を入手して、あとになって「下なる」「なつ山」「池のながれ」と書き直した痕跡が解析により分かっています。
太田牛一は連歌の場にはいません。愛宕山連歌会の参加者やその弟子と牛一との接点もありません。
太田牛一は確実に惟任退治記の作者の大村由己から愛宕山連歌の明智光秀の詠んだ歌を聞いて書き写したのです。
太田牛一も大村由己も秀吉に仕えた同僚で、第三を詠んだ連歌師の里村紹巴(さとむらじょうは)とも深く親しい間柄でした。
もし最も信頼度の高い愛宕連歌の3つ
発句
ときは今あめが下なる五月哉 光秀
脇句
水上まさる庭のなつ山 行祐(西坊)
第三
花落つる池のながれをせきとめて 紹巴
[信長公記:岡山大学附属図書館池田家文庫(太田牛一自著の原本:池田家本)]
[意味]
土岐氏は今、五月雨に叩かれているような苦境にある五月だ(六月になったら脱したい祈願
土岐氏の先祖(水上)よりも勢い盛んな(夏山のような)光秀様(そうであるから祈願は叶うと激励)
美濃守護職を失った(花落つる)池田氏の系統(池の流)をせきとめて(明智氏が代わって土岐氏棟梁を引き継げばよいという激励)
をそのまま書き写してしまえば、
発句において、「下なる」なので光秀は愛宕山連歌時点でも主君・信長様の天下を信じていたことになります。「下しる」として「この光秀様が天下を奪ってやるぜ」という豊臣秀吉にとって都合の良い短絡的な悪人を作れません。
脇句において、行祐は「夏山」で光秀を例えています。明智光秀を応援したとして共謀罪になります。
第三において、里村紹巴(さとむらじょうは)は、「土岐」と来て「土岐池田氏」の「池」を掛けているのでモロすぎます。明智光秀を応援したとして共謀罪になります。
豊臣秀吉にとって親交の深いものが謀反に関わっていてはまずいわけです。
あくまで信長様はたて、光秀のみを悪人にする必要があります。
それで光秀を例えた「夏山」と池田氏の系統を例えた「池の流」を消したのです。
そして太田牛一は、1596年に惟任退治記の作者の由己が死に、信長公記の成立した1598年に秀吉が死ぬと、光秀の愛宕山連歌を「下なる」から「下しる」に書き直します。
更に「まつ山」→「夏山」、「流れの末」→「池の流」と、惟任退治記の由己が意図的に改ざんして牛一に伝えた内容を再度訂正して元の形に戻しています。
これほどまでに徹底して光秀と土岐一族の思いを消そうと必死だったのです。
愛宕山連歌は何の戦勝祈願だったのか?
愛宕山連歌は、毛利との合戦への戦勝祈願でした。
明智光秀の心境で、なにが苦境かと言えば織田信長の出した命令である四国の長宗我部元親への征伐です。
長宗我部元親は光秀の重臣の斎藤利三(春日局の父=三代将軍徳川家光の実母。乳母ではないことがもう近年の定説になった。)と縁が深すぎるためです。
信長と長宗我部元親との交流は深く、光秀も長宗我部元親は上洛前からの深い間柄です。
特に長宗我部元親は、土岐石谷(いしがい)氏と土岐明智氏で硬い結束を結んでいました。
長宗我部元親の正室は、土岐石谷光政の娘。
斎藤利三の三男の斉藤利光。その兄の斉藤頼辰は、土岐石谷光政の養子に入っています。
長宗我部元親は土岐石谷氏と一体化しているのです。
しかも同じ幕府奉公衆として代々繋がりがあります。
明智光秀からすれば同じ「土岐一族」です。
それで殺し合えと信長に言われた時は、家臣や妻やお家を重んじる明智光秀にとって本気で苦境に立たされたはずです。
しかし本能寺の変は本来、信長ではなく別の人物が殺されるはずだったので、この時点で「下なる」であっても何の問題もないわけです。
明智憲三郎・原作 藤堂裕・漫画 コミックス「信長を殺した男」(ヤングチャンピオン連載。本能寺の変431年目の真実の漫画版)超おすすめ。
明智憲三郎 織田信長 435年目の真実 (幻冬舎文庫)
明智憲三郎 本能寺の変 431年目の真実 (文芸社文庫) ベストセラーとなった明智憲三郎氏の名著。