天皇陛下や皇室でMAD(※)を作る場合、宮内庁の「皇室映像の規約」によると第三者が権利があるという。
MAD・・動画や音声を編集、改編し新たな意味を付加された動画や音声のこと。
有名な「天皇インテグラ爆走MAD」がある。
これは後半の音量と倍速編集程度をしただけだ。二次利用は許されているのだろうか。
「天皇陛下のお気持ちMAD」も同じである。
日本の法的な考え方を学ぶ上でアンチテーゼとして考えられる良い事例である。
例えば、芸能人等なら無断で動画を編集したりすれば「勝手に俺の顔を使うな!」となって肖像権や著作権やプライバシー侵害になる。
しかし実際に他人に動画に使われる程の有名人なら目立ちたい人が多い。
そのため悪意なく良いように動画編集してくれれば別に何も訴えられたりしない。
悪意がなければ動画編集者を訴えたところで問題にされないし、何より訴えた側の方が弱い者いじめのようで大人げないため株を下げてデメリットになる。
よって「宣伝してくれてありがとう」とお互いのグレーゾーンで落ち着いている。
しかし天皇陛下はどうだろうか。
宮内庁のホームページには「映像には第三者の権利がある」と書いてある。
天皇陛下個人ではなく、公務の映像は宮内庁の所有であるのだろう。
しかしMAD作成されたところで誰が「問題だ」と判断するのか。
天皇陛下は「この動画編集は良くない!」など個人的に感情を言うとは思えない。というか絶対にない。というか国民の象徴として干渉・感傷して言ったらダメである。
天皇に権利はあるか、という話は人権がある派(左派)と、ない派(右派)での対立があるからだ。
左派にとっての人権のある天皇
人権があれば「人」になるので特称命題でなくなる。
左派は人の権利を重んじるために、「人権がない人」なんてあってはならない。
例えば、学校や職場でパワハラやいじめがあったとする。
被害者側が「人権を尊重しろ」と言ったところで、天皇陛下という人権のない反例が一つあれば「天皇のように人権のない人だっているんだ。そんな事知ったことか。」で論理が通ってしまう。これではまずいのだ。
「カラスは全て黒い」という全称命題を立てても、白いカラスや灰色のカラスという一つの反例(特称命題)によって、「カラスは全て黒い」の論理は破綻する。
右派にとっての人権のない天皇
日本の右派にとっては天皇陛下は天照大神の子孫であり、現人神なので人ではない。カミである。
人権があっては人になってしまう。カミ様がなくなるのでまずい。
ただ世界基準の右派も「人権などというものはない」と考える。
リバータリアンであれば尚更である。
自然法<自然権<人権
という自然の物理法則の「法」から、社会の法律の「法」となり、
それが国に権利として変換されて行った歴史的過程の中で、
許容されるのは権利以前の「法まで」となる。かろうじて「自然権」まで。
右派で人権まで許容していたら、右出身の人が左のことを主張するネオ・リベラルの立場に近い。
この論点は、
神学=数学で言うと「点(神)」が「ある派」と「ない派」。
経済で言うと「神の見えざる手」か「合成の誤謬」か。
という問題に帰結する。