小室直樹氏は中村元(なかむら はじめ)という仏教学者から学んでいますが、この中村氏の言葉を引用すると、
「”有”と”無”の上位概念が”空”」
と書いています。
苫米地氏に直接お聞きしたところ、やはり苫米地氏もこの二人は尊敬しているようで本もこの二人から引用していると言ってました。
この世のすべてのものは情報によるヒエラルキー(階層)になっていて、上位の概念が下位の概念を包括しています。具体的には、植物連鎖図のような”三角形”の図をイメージしてみると分かりやすいです。
少し難しいので噛み砕いていうと、
例えば、野菜というカテゴリーであれば、下にピーマンやレタスやトマトなどがあります。動物というカテゴリーであれば、下に犬とかネコとかのカテゴリーがあって、またその下のカテゴリーに犬ならハスキーとかダックスフンドとかチワワとか、猫ならシャム猫とかアメリカンショートとかが並んでいます。
この近代科学の考え方を「構造主義」と言いますが、下の概念ほど情報量が多くて、上の概念ほど情報量が少ないです。上の概念が、下の概念を包括します。
例えば、
「犬」と上位概念を言われても下位概念に対して情報量が少ないので「具体的にはどの種類の犬?」となりますし、
「チワワ」と言われても上位概念の「犬」に対して情報量が多すぎるので「どんな特徴の犬?」となり、「犬カテゴリの中で、小さくて、目が大きくて…」と定義する情報量が増えます。このように上下を定義しないと分からないわけです。
この考えを、この世の全体に当てはめると、突き詰めれば一番上にあるのは「有」と「無」。つまり「存在するのか」「存在しないのか」の2つになります。
欧米のキリスト教・イスラム教の考え方は、トップに「有」ということで「神(ゴッド)」を定義しています。
対して、仏教ではつい近年、ダンマパダやスッタニパータなど、原始仏教の教典が見つかるまでは、中国道教の影響を受けて「無」が重んじられてきました。
基本的に中国では共産主義で唯物論であり、宗教(あるいは非科学的なもの)は撲滅されます。
つまり権力側は「有」を重んじるので、対して民衆側は「無」を重んじようとして、インドから中国に渡る途中で入り込んだのが、この「有」(権力) vs 「無」(民衆=宗教)の道教思想です。
しかし、近年の仏教原典の再発見で、中国を通った教えは全て道教のフィルターを通している偽書であると分かり、本来の釈迦の教えには「有 vs 無」だけではなく、更に上位の思想を説いていたと分かったわけです。
今まで「空」とは「空(から)」で「無」と同一視されていましたが、
「空」とは「”有”と”無”の上位概念が”空”」と正しく理解されるようになりました。
そしてこの「空」は、下位概念との因果関係に縁(よ)って、成立しています。
ここまでが釈迦の説いた「空」と「縁起」の教えです。
「空」を定義するためには、それを形作る「縁起」も定義しないといけません。
ここから出発して、弟子が解いたのが「唯識」という空観、仮観、中観の一心三観の思想です。
これは釈迦の考えと行動を正確に受け継いだ龍樹(りゅうぎ:ナーガールジュナ)と呼ばれる人物の「中論」によって説明されたモノで、「一心三観」での説明が分かりやすいです。
この思想は日本の中でも原始仏教に近いとされる禅宗系、あるいは天台宗でも語られています。
天秤(てんびん)の図をイメージして、中心軸に「中観」があり、両端に「空観」「仮観」があるイメージをしてください。(右上の図)
一切の存在には実体がないと観想する「空観」と、仮に現象していると観想する「仮観」、その間の「中観」です。
「空観」だけだと「有」「無」は「有ると思えば有る、無いと思えば無い」で、全ては「認識」に任されます。
「仮観」だけだと、まさにテレビゲームと同じ仮想現実です。
極端に言うと、空観だけだと全てが空と悟って瞑想に自己陶酔するだけで怠惰になる、仮観だけだと全てが仮想の妄想なのでどんな悪行も許されてしまう。そこで間で「中観」を取りました。
例えば、
インドの昔の行者は「空観」を重視しすぎて、苦行な修行ばかりしようとしていました。これは一見悟りに近づけるようにも見えますが、本質は「自分が悟りたいだけ」という自己陶酔の傲慢さから来るもので、他人との相互の「縁起」や関係性が抜け落ちてしまうわけですね。
「仮観」を重視しすぎたのにはオウム真理教があります。「全てはゲーム」の思想だったので、人を殺すことに対してもためらいがありませんでした。こちらにも「空」のような他人との相互の「縁起」や関係性が抜け落ちてしまうわけです。
なので間に、比較できるものとして「中観」を置けば、「空」の本来の「縁起」の思想が浮き彫りになってくるわけです。
全てが仮の仮観でも、空の「縁起」の思想が入れば「全てに意味がある」と解釈されるので、事象の関係性や利他的な心を生み、悟れるというものです。