私は月に一回ほどカウンセラー仲間同士で集まって話しています。その中で臨床心理士仲間から「すごい俳句がある」と紹介されました。

「すごい俳句? 一体どんな俳句なんだ・・?」

と私は興味津々でした。その俳句とは・・

2017年頃にNHKラジオの「俳句の変革者たち」で紹介されたものだそうです。


俳句の変革

「夏草に 汽罐車の車輪 来て止る」(山口誓子)

これは確かにすごい。革新的です。

私も俳句を聞いて「マルセル・プルーストの瞬間生ですか?」とすぐ聞き返しました。

解釈はだいたい合ってたようだです。

止まって静観する車輪に無意志的記憶が包摂されていたからです。

少し解説します。

どこが革新的なのか?

1つ目は「時制」、2つ目は「見る視点」です。

流れる時制

俳句で時制が流れているということです。

夏草・・と始まれば、松尾芭蕉の「夏草や兵どもが夢の跡」を連想させます。
奥州藤原氏の栄枯盛衰を江戸時代に詠んだ俳句です。

しかし次に、汽罐車の・・と来ます。
汽罐車は明治時代です。
2020年代において蒸気の汽罐車は走っていません。
生で見たことのある人も少ないでしょう。
機関車と書かずに、わざと旧字体を使っているのも特徴です。

このあとに「車輪」と来るので、「時代の流れが動いてきた」という動的な連想をさせます。

ただここまで誰も「汽罐車の車輪」は想像による連想でしかないのです。

見る視点の多様性

最後に「来て止まる」としめているのが素晴らしいです。

私は「来て止まる」と聞いて普通に停車した様子をイメージしましたが、人によっては脱線したのか?と思った人もいるようで、この見る人によって違う多様性が面白いです。

私が最初に「マルセル・プルーストの瞬間生ですか?」と連想をもったように、この句の中心は「車輪」にあります。

あるがままの静止した車輪なのですが、その奥にはあらゆる連想を内包しているのです。

それは車輪がもっているのではなく、見る人がもっています。

だからこそ「なぜ車輪が来て止まるのか?」について、脱線したのか?故障したのか?停車したのか?と、止まっているはずなのに連想を膨らませます。

これを唯識では「一水四見」と言います。

同じ水でも見る人によって見え方が違うという意味です。

これが時代的な動作性をもった前句から始まっているので、「この先もあるはずだ」と未来への時間的な経過を連想してしまうのです。

しかし自分の前に「来て」「止まった」ので、「なぜ?」と連想を続けてしまいます。

これが素晴らしいのです。


マルセル・デュシャンの「泉」に見る日常回帰

私は「来て止まる」の山口氏の俳句と一緒にマルセル・デュシャンの「泉」も教えてもらいました。

(参考)
なぜ《泉》ばかりが注目されるのか? 平芳幸浩評「マルセル・デュシャンと日本美術」展
https://bijutsutecho.com/magazine/review/18848

これは便器です。

ただ座りにくくて仕方ないデザインになっています。
ただギリギリ便器と分かるデザインで、よく見ると使いにくいのです。

一度抽象度を上げて、そこから日常回帰したもの。

なんの意味があるのかと固定観念から外れることで、一水四見で見方を変える。

最先端のアートも数学と同じです。

先に未来の答えを出してしまいます。

マラソンで破天荒に突っ走る人がいて、その時は「何だあいつ頭おかしい」と揶揄されて理解されないから評価もされません。

しかし100年後や1000年後に、なるほどそうか、天才だったな、と言われるのです。

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