フロイトユング意識無意識

自我とは?エス(イド)・超自我とは?
https://libpsy.com/idegosuperego/254

の中で、人の「自我」(エゴ)は、動物的本能の「エス」と理性の「超自我」が、引っ張り合っているのをコントロールしているという話を書きました。

ここで上の「精神構造の捉え方」の図を使って、フロイトとユングという初期の心理学者の基本的な考え方を理解しましょう。

スポンサーリンク

フロイトは動物的本能の「エス」からは「リビドー」という性的な欲望のエネルギーが出ていると考えました。

よく「フロイトは、男性性器がどうの、おっぱいがどうの、という話をして、単なるエロいおっさんだったんじゃないの?」と言う人がいますが、「動物的本能」と言われれば納得できるのではないでしょうか。

今でさえ欲求には「物欲」「性欲」「睡眠欲」「食欲」「排泄欲」が5大欲求で言われます。
しかし、科学が今ほど発展していなかった当時に「こころ」というものを研究しようとした場合、古典文献に頼らざるを得なくなり、フロイトは「性欲」や「排泄欲」などで説明しようしたのです。察してください。

具体的にはフロイトはユダヤ人だったのでヘブライ聖書で説かれる「罪」の3種類を参考に、精神構造を説明しようとしたのだと思われています。

ユダヤ教における「罪」の3種類は、

ペシャ/メレッド・・意図した行為で起こした罪(最も重い罪)
アヴォン・・性欲や制御不能な感情で起こした罪(軽い罪、非難の対象ではない)
ヘット・・意図しない罪、過失(軽い罪、非難の対象ではない)

です。
ユダヤ教においても(少なからず)「人は生まれながらに罪深い」「行為自体が罪深い」とされ、それを悔い改めることを教理とします。

フロイトも「精神構造の捉え方」において同じように「精神」を、

意識(conscious)・・意識されている意識
前意識(pre conscious)・・意識される前の意識
無意識(un conscious)・・意識しない

という「構造」で説明しました。古典文献を使って神がかっていたものを、人の手で操作できるように構造的にしたのが分かります。

ヒトは、他の動物と違って動物本能を垂れ流しにすることなく、その動物的なエロス(生)のリビドーのエネルギーは無意識下に「エス」として「超自我」が抑圧しているのです。

それを意識するものとして「自我」を定義しました。

 

対して、ユングはそこまで細かく定義せず、もっと分かりやすく意識と無意識の関係だけで捉えました。

ユングは、フロイトと違いユダヤ教ではなく、キリスト教プロテスタント(ルター派)の生まれでした。
プロテスタント系のルター派は「罪」に関して、悔い改めるべきものとしながらも、キリスト教カトリックやユダヤ教よりは重視はしないので、「意識」と「無意識」のシンプルな対立でよかったのです。

ここまではユングとほぼ共通だったのですが、「無意識」の中身について、フロイトのようなユダヤ教ベースの説明ではどうも腑に落ちず、大好きだった仏教の東洋的な構造で説明しようとしたと思われます。

もはやキリスト教プロテスタントから見ても異端中の異端で、これは「グノーシス主義」や「カバラ思想」と言って、キリスト教からは当時「悪魔教」と呼ばれた(※)多神論・汎神論です。
(※)多神論(たしんろん)・・唯一神のGODではなく、日本のように八百万の神様がいるという考え
汎神論(はんしんろん)・・動植物やモノなどにも神様が宿るという考え(愚像崇拝)

具体的な元ネタは、仏教の唯識論の構造です。

特に古代ヒンドゥー教(バラモン教)での本質的一致(梵我一如:ぼんがいちにょ)のウパニシャッドの思想を採用しました。

ウパニシャッドの中心はブラフマン(宇宙我)とアートマン(個人我)の関係で見ます。

そのアートマン(個人我)の中身を、ヒトに置き換えて

阿頼耶識(あらやしき)・・意識
末那識(まなしき)・・無意識

としました。

ここからがいまだに仏教内でも議論のある話なのですが、ウパニシャッド思想では、アートマン(個人我)を管理する普遍的(変わらない存在)としてブラフマン(梵天:宇宙我)という存在があります。

つまり個々のアートマンが、根本はブラフマンと宇宙で繋がってるんだよ、みんな一つなんだよという考えです。

これをユングは、「集合的無意識」と定義しました。

更にこの理論を固めるべく、同じく汎神論で多神論だった古代ユダヤ教の「セフィロトの樹」や「タロット」(要するに占い)を使って説明しました。

このようにフロイトとユングは、「精神」というものを「人が構造的に説明する」ことをした時点で、宗教的にはかなり二人とも異端でした。

それは今まで聖書で語られていた絶対的な世界観を「人」の手によって操作することだからです。それが近代科学の発展の歴史でもあります。

しかし、どうしても当時は、古典文献に頼らざるを得なくなり、聖書や教典から説明するしかなかったのです。

今こうして見ると、宗教的には、
フロイトはユダヤ教ベースでそれを構造化して操作しようと時点で異端であり、
ユングはプロテスタントの単なる異端を超えて仏教まで進出し、それだけでなくカバラ・グノーシスなどの古代ユダヤ教まで行ってるので超異端です。

フロイトは、無意識の構造を「動物的本能」「理性」など合理的に定義している点でユングより優れています。冷静ながらもぶっ飛んでいる人物です。
しかしもっと後世になって定説となる心の「認識」や「機能」「関係性」までは考慮できていません。

ユングは、意識と無意識を仏教を元に定義したことで、フロイトよりも先駆的で「識」という「認知」と、「機能」という「関係性」まで導入できる汎用性の高さがフロイト以上に優れています。かなりぶっ飛んだ人物だと分かります。
しかし実際の唯識論では、ブラフマンの存在は「空」とされるので、「存在」としてしまった点が惜しいです。

しかし当時にそのぶっ飛んでいる発想を持ち出し、宗教サイドからは「異端だ」、現実に見えることを重視する当時の行動主義な科学からは「疑似科学だ、オカルトだ」と周囲に非難されながらも研究を続けたのが、二人のすごいところです。

このモデルで人間の精神医学・心理学は研究され続け、そして今では実際にこれらは数値化されて科学的に操作可能になりました。

一長一短はありますが、今ではこの2つの折衷が心理構造のモデルとしては説明されている(構造のフロイト、認知のユング)ので、この2つの古典的な違いを理解しておくことは大切です。