老後に高齢者がやることがなくなると
「これから、たくさんの不幸な人が私へ助けを求めて玄関へ集まるから、玄関を大きくしないと」
と固定電話を握りしめて
「他人の不幸よ来い!!他人の不幸よ!来い!」とやる共通行動。

他人を下げて自分を上にして、頼らせて承認させる同時に満たしたい思い。


高齢者の夢が破れた妄想ストーリーに巻き込まれるな

どんな人もストーリーを描いて生きている中で人間が歳を取ると、そのストーリーが叶わないことが分かってくる。打ち上げるべく、いきなり宝くじで全財産ぶっ飛ばしたり、新車買ったりして数百万円単位で消し飛ばす。いくら周りが止めても理性が働いてない。
猿芸の猿も大人になると野生化するのと同じ

妄想の中で遊ぼうとしてくる。
「もし私が異世界転生したら、この世からすべての新しいものが消えて、私が一番の昭和の世界だった件」というタイトルの夢想ラノベ。
それを現実に行動してしまう。

高齢者になると、不幸の電話を待ちわびるため固定電話を毎日握りしめて、毎日お金に固着して銀行残高を確認し、数年前を忘れて-40年前に戻そうとする。今持ってる物や他人の決断を「ワシは聞いとらんのに勝手にやりやがって」とキャンセルして現実を昔に戻そうとする。その妄想行動で疲弊する。

60代になって「自分のやってきたことを継承したい」と次世代に託そうとする人が多々いるが、それまで40年間もデジタルトランスフォーメーションを拒絶し、自分の地位保守のために「鉛筆手書きに戻せ戻せ」と過去退行のアナログ化を周りに求め続けたせいで、腐のレガシーのゴミを渡すみたいな感じになる

「親へ恩返ししよう」「親みたいになりたくない」は絶対やめろ

「親へ恩返ししよう」などと共依存関係を作って家庭内で親子で完結。それが次世代にも社会化して共有されることもなく、他者へ対象化されないまま終わる。

「親みたいになりたくない」と「〇〇みたいになりたくない」として生きると反動でそれを抑圧して投影してしまう。

回避したり拒否反応を起こして逆に極端にブレる。内在化されないから。

「なってもいいけど、自分は別の〇〇をやる」のスタンスでいないと正反対のことやるだけで完結してしまう。

90代後半の親を70代の子が介護して「10年間も介護大変でした」と言う介護の記事を見て、10代で障害者の親の介護やってる私は何だったんだと思った。課題が早すぎる。