アスペルガーの方の相談をよく受けます。
私の友人にも多いです。多すぎて親しみがあります。
大学の研究職だと、ひたすらその分野の研究にこだわりを持っていて追求してしまうアスペルガーも多いです。
アスペルガーは「頭がいい」とか「わがまま」とか「自己中心的」と周囲から思われていることがよくあります。
それはそういう言う人が「目立ってしまう」だけです。
実際は普通の健常な人と同じように、
「消極的な性格のアスペルガー」もいれば「積極的な性格のアスペルガー」もいます。
特別支援学校などで悩みの構図を見ていると、
「積極的な性格のアスペルガー」に「消極的な性格のアスペルガー」がいじめられている構図がよくあります。
消極的なアスペルガーの人と相談していて感じました。
「消極的な性格のアスペルガー」は、こだわりゆえに行動が遅かったり、落ち着きたいのに落ち着けなかったり、やりたいのにやれなかったり、吃音(どもり)を気にしてしゃべりにくくて苦しんでいたり、下手に喋っても言葉が選べないので周囲から嫌われてしまったりと自己矛盾した葛藤を抱えています。
研究職の人にはちょっとそんなオタク気質の人が多いです。(私もその傾向があると思います。)
「こだわり」の強いアスペルガーにとって、
同じく「こだわり」の強いアスペルガーは対立にしかならないのです。
対立になるのは、発達障害そのものではなく「性格」です。
ある消極的な性格のアスペルガーの方が、
『「私それ嫌い」「早くしろ」という人はだいたいアスペルガーだ。』と言っていました。
私は「そうとも限らないんじゃないか?」と思いつつも、
たしかに「好き嫌いがはっきりしていることを他人に言ってしまう」という「他人の気持ちを考えない」という社会性や想像力の欠けている点や、
急かす場面でもないのに「早くしろ」と「最初にインプットされた脳内映像」に「周囲を合わせようとする」ので怒りっぽく言葉を選ばないコミュニケーションが欠けている点を考慮すると、
そのアスペルガーの方がいう気持ちも何となく共感しました。
「好き嫌いがはっきりしている」ことも「急ぐ」ことも「思うまで」は別に良いのですが、
それを「他人に欲求する」のは確かにおかしな行動です。
アスペルガー障害とは自閉症スペクトラム障害の一つ。
自閉症スペクトラム障害の自閉症状の典型的(定型)として
1、コミュニケーションの欠け(言語障害や言語遅滞など)
2、社会性の欠け(独自のこだわり、理由なしに嫌がったりなど)
3、想像力の欠け(表情からの気分の読み取り、場の雰囲気の理解、共感能力の欠如など)「知的障害者ではないけど自閉症の人」のうち、
1~3の全てに当てはまらないが、
どれか1つか2つは当てはまる非典型的(非定型)な自閉症を「アスペルガー症候群」と呼ぶ。
この話を聞いて思ったのは、
アスペルガーのどこまでが脳の「器質」的なもので、
どこまでが「性格」によるものなのだろうと言うことです。
ケーキのスポンジにあたる部分が、先天的な「脳の器質」。
スポンジにどんなデコレーションをするかが後天的な「性格」です。
アスペルガー(自閉症スペクトラム障害)は、初期入力(最初のインプット)が絶対普遍的になります。
その「初期入力(第一イメージ)」が先行して固着してしまうと頑としてその意見を曲げません。
そこまでは別にいいのですが、
問題は、それを保守するゆえに「負けず嫌い」であり、それを崩れると発作的にすぐ「怒る」という感情(動物的本能)にすぐ脳シナプスが繋がってしまうのです。
周りの人は「短気」「怒りっぽい人」で片付けていることがありますが、そもそも怒っている場面が道理に合わないことばかりでおかしいのです。
他人には言うのに「自分にも当てはまる」とは考えられない
これは「三ツ山実験」で明らかになった「自己中心性」です。
ピアジェの時代の解釈によると、8歳以下の子供は「自分自身の視点に根差して」おり、自分自身以外の他の視点を想像できないから、自己中心的であると考えられている。
三ツ山課題で言うと、「自分の今見ている場所」の風景しか答えられず、他の視点から見た山の様子は答えられません。
(他人に「同情」できるかどうかですが、実際に8歳頃までは相手の”気持ち”までは深く汲み取っておらず、自分への「置き換え」による同情モドキのようなことをしています。)これと同じなのです。
相手の側がどう思うか?は考えられません。
これは脳が発達してないのに起因して、自己愛の性格がデコレーションされているのです。
心理学者のハインツ・コフートのいう「自己愛の段階」で止まってるのです。
どうしても困れば「怒鳴ればいい」「無視すればいい」とやってしまう。
自分以外のことまで考える力がないのです。
周りの人もそれで悩み、本人自身も「なんで?なんで?」と悩むのです。
実際には「書類」等で、目の前に具体的に見せるまで分からないのです。
独断で「ゴミ」と認定して勝手に捨ててしまう事例
私の知る事例では、
「お墓の花」や「記念碑の手紙」や「病院の千羽鶴」や「観光地に設置してある自由帳ノート」を勝手に持っていって捨てているアスペルガーがいました。
持っていく時点で窃盗罪なわけですが、
本人は「これはゴミだ」と断定していました。
注意されると「ふざけるな!なんでゴミを片付けて怒られるんだ!ダメな理由を説明しろ!バ力ども!」と逆ギレされるので困っていると相談されました。
別に花や手紙などが傷んでいたわけでもありません。
当人の「最初にインプット」された脳内イメージに、
「花がないのがお墓」「記念碑には手紙はない」「千羽鶴は病院にはない」「自由帳は観光地にはない」
とインプットされてしまったのでそれ以外は「ゴミ」なのです。
勝手に処分した理由は「おれの頭のなかにあるイメージと違う」から。
「存在していてはいけない」ので発作的に怒ってしまい「処分だ!」と勝手に捨てていました。
「花」「手紙」「千羽鶴」が置いてある裏には、家族の人たちの供養や御見舞の気持ちがあってね・・
「観光地の自由帳」には自治体の人たちや観光者の思い出共有の気持ちがあってね・・
という
「物」の「背景にある他人の気持ち」がどうしても分からないのです。
自分の所有物を勝手にゴミと断定されて捨てられたら怒るのに、それが他人には適応されないのです。
学問の関係性が分からない事例
「こだわり」により「視野が狭すぎる」こともよく起こります。
例えば、「物理学と化学と生物学はまったくちがう!まったくの無関係!」と言っている人がいました。
実際にはそんなことはありません。
物理学で小さい順に言えば電子 < 中性子、陽子 < 原子 < 分子があって、それが化学物質を構成して、生物を構成しています。
1つ1つがまったく無関係ということはないのです。
量子力学や数学の世界とも密接に関係しています。
アスペルガー傾向だと、このような「構造的」な抽象化が分からないのです。
どうしてもその「分野だけ」を切り分けてしか考えられないので、「他と関連している」ということが分からないのです。
逆を言えば、
なんで生物にお薬が効くの?生物学と薬学は全く関係ないなら効かないんじゃないの?
とか
なんで生物が紫外線の影響を受けるの?物理学の重力と生物学は無関係じゃないの?
とか
レモンにはビタミンCという成分が入ってるけどレモンとまったく関係ないの?
・・という逆説は山ほど立てられますが、それを聞くと怒り出してしまうのです。
頭のなかで、人間は人間、薬は薬、レモンはレモン、栄養成分は栄養成分、と牢獄のように頑なな壁でそれぞれ仕切られているので
「関係性」が分からないのです。
このアスペルガーに特徴的な「テレビのチャンネル」のように分かれた認知は、「金剛界曼荼羅(こんごうかい・マンダラ)」と言われています。
過去記事
心のマンダラ
独断の遊びに巻き込もうとしてしまう小児の事例
最近、私は特別支援学校の小学校5年生のアスペルガーの子と遊びました。
彼は突然
「これからドッジボールしまーす!3分以内に○○君はボールを○○君は線を引いて!はい!早く動く!早くして!」
「ンモーなんでやらないの!やる気あるの!」
と一人で激昂していました。
大人になってからもこれをやる人は大勢います。
「他人の都合も考えようね。自分だけやりたいって思っても、みんな思ってないんだよ。」
と諭すことが大切なのですが、
「他人の都合」がわからないので、自己中心的に「操作」しようとしてしまうのです。
イメージと違ったので怒り出す教師の事例
大学の先生でもアスペルガーすぎて迷惑になる人はいます。
私の学生時代にも、大学で教室に入るやいなや
「私のイスがなーいーー!お前らやる気あるのかー!」「早く用意しろー!さっさと動けー!」
と大声で激昂しだした教員がいました。
大学なので元より自由席なのです。
山ほど座席は空いています。
この空気の読めなさと自己中心性と論理的思考力に欠ける感じを見て、
周囲はすぐ「あ・・アスペルガーだな・・」と察しました。
「はい、先生様、こちらにお椅子がございます」と学生が案内するイメージが先行していたのです。
アスペルガーに自己愛性人格障害が加わるとこのように周りが「???」と思う自体に巻き込まれてしまうのです。