真冬に京都の山奥の禅寺で修行してきました。
修行させて頂いて思ったことは「人間は意外と生きられる」ということでした。
天井粥(天井が映るくらい薄められた粥)と大根の葉とたくあんだけの三食、あとは坐禅。
別にお金なくても、定職に就かなくても、托鉢のお米や施しと落ちてる大根の葉っぱで生きられるじゃないかと気付いてしまって、何も駆り立てられなくなりました。
老後の年金とか不安な話をしていても、こういう体験があると根底の所では生きられるもんだという安心感が持てます。
正直もう今の職場で技術をある程度得たら、もう好きに生きたいです。引きこもりたいです。
衣食住に困ったら寺に駆け込める安心感
自分の先入観やプライドまで捨てれば、寺修行生活にはなりますが、衣食住はある禅寺に駆け込めばいいです。
禅寺に限らなくても、天理教だろうがキリスト教だろうが何でも、駆け込めば最低の衣食住を何とかしてくれる場所はあります。
僧侶のプライドと慈悲で何とかしてくれるでしょう。
「駆け込み寺」があると知っておくだけもいざという時の安心感があるのです。
友人に学ばせてもらう
私が行くことに決めたのは、私自身が友人に「禅寺で修行したら」と冗談まじりで勧めてしまい、それを実行した姿勢に感服したからです。
仕事で出張だと家族知人にウソを告げ、スマホ捨てて連絡先全削除しての出家。
当然ながら消息不明になったことを親には怒られたようでしたが、それはまだしも親戚まで怒りにきて「エリート公務員になることこそお前の道であり…」と説教するので、いよいよ鬱陶しくなってきたと彼は語っていました。
なぜに家以外の連中が一個人の意思決定や進路まで妨害して決めようとしてくるのか。自由を阻むのか。
しかし帰ってきた彼は、オーラが清流のごとく変化しており、呼吸と姿勢が良くなっていました。
「オーラが植物の域に達してるがどうしたんだ」とつい聞いてしまいました。
禅寺修行から帰ってきた彼は、熟考の末「自分が家から離れられないのは胃を支配されているからだ」と洞察していました。
特に家事スキルが上達したようで「これで親に胃を支配されることはなくなった」と言っていました。
毎日、朝の粥座(しゅくざ)と夜の薬石(やくせき:夕食)で何十人分も作り続けたようです。
今では「親に食事を作り返すことで胃は支配されない」と親へ食事を作り返す行動をしていました。
禅寺での夜明けの体験
私が京都の禅寺で修行していた時も、5:20起床(開静)、坐禅、7:00朝課(読経)、7:50粥座 (朝食)、9:00作務(作業・掃除)、 12:00斎座(昼食)、作務(作業・掃除)、17:00薬石(夕食)、坐禅、22:00開枕(消灯)
…という概ねの日課でした。
開枕(かいちん)で振鈴(しんれい)の音を聞くと、条件反射的に5秒以内に起床して布団を片付けて坐する、という禅寺修行の習慣は今でも根付いています。
京都の禅寺で修行していた時。真冬の早朝。まだ真っ暗。粉雪が吹雪く中、一畳の空間で丸まって寝ていました。
起床して、真っ暗の中、屋外の水道で限られた水で顔を洗っていました。
手がかじかんで感覚なかったです。
しかし朝焼けにゆっくり照らされる薄雪の京都の街並みを山から観て何か得も言われぬ感動を覚えました。
自らの凍死しそうな死と、夜明けの明るさという、不安と期待が入り混じった感じでした。
縁の機能としての対象恒常性
集団で気づけたことは「対象恒常性」と「対機説法による鏡と理想」。
「対象恒常性」とは発達心理学で「自分の目の前から他者などの対象がいなくなっても、その対象は変わらずに存在していると思える感覚」。
対象を心に取り込むことを「内在化」と言います。
そしてお釈迦様のよう相手に合わせて教えを説く対機説法。
それに伴って、鏡と理想が生じます。
鏡とは共感してくれる何でも人のこと、理想とは将来の羅針盤となるような人。
共感的な役割の人、理想的な役割の人が出てくるのです。
どんな集団になっても、誰かが共感役割や理想役割を求め、引き受けようとするのです。
その気がなくても自然に出てしまうのです。
まさにこれが「縁」の機能。
集団の中心に長いこといるとそれに気づくことができます。
なぜ非日常に行ったはずが日常回帰するのか
興味深いのは対機説法(相手に合わせて教えを説く)をしていても、こちらが浮世離れしていると、相手が社会常識に凝り固まっていくのです。
修行者の方が社会からの外れ者が多いせいで、逆に心理的な鏡(ミラー)としての役割を、周囲が引き受けて理想化が行われてしまっていたということです。
本来であれば、苦(ドゥッカ)を克服するためには逃避するのではなく、面と向かって一度は立ち向かわないといけません。
それは苦しんだことを克服するために同じことで苦しもうと、「同じことを繰り返す」という意味ではありません。
自分が「どうしてそうなったか」をしっかりと「認めて内省」することです。
しかし、相手あるいは自分が、その「鏡の役割」を引き受けてしまうと社会の申し子みたいになってしまうのです。
どこまで意識的にそれができるかが問題です。
日常から逃避して非日常を求める集団の中で、その悩みの受け皿となった人は、逆に日常的な役割になってしまうのです。
こうなると立場上、自己心理学で言う理想役割の「理想化」が起こります。
対象恒常性(人は無意識に内なる親役割を求めて安定しようとする)によりそれが「縁」として機能するので、非日常から日常回帰が起こるのです。
例えば、社会の中では非常識な人は孤立します。集団の中で非日常的だからです。
しかし集団そのもの全員が非常識で非日常的だったら?
その気持ちを受け取る人(鏡)が常識的になるのです。
そして自分が「非常識の反動で常識的に振る舞っている」ということに気づけないと「こうすれば良いのだ」という「理想化」されてしまうのです。
この循環が「縁」として機能しているのです。
集団の限界値が分かる
私も和尚に恫喝されることもそうでしたが、日課の中でも食い上げ(残った料理を食べつくすこと)は苦しいものであり、
作務(さむ:掃除とかの労働作業)ではやることのネタ切れを起こします。
一人でやる分にはいいですが、集団をまとめようと思うと大変になります。
「ミラーの法則」と「マジカルナンバー7(±2)」により、記憶メモリと同じように7つ前後が大体の限界値なのです。
集団でも7人がぎりぎりで、それ以上はチャンクとして階層化しないといけません。
多すぎるとパレートの法則(2:8法則)のや社会的手抜きも発生しやすくなります。
意識しなくても動作と姿勢で形に表れる
禅寺修行で気づいたことには「短気な人の家のモノはすぐ壊れる」ということです。
意識しないうちに、無意識でモノを雑に扱うので、しょっちゅう壊れます。食器や機械や雑貨に至るまで。
「また壊れた、なんで、なんで」と騒ぎますが、自分に問うて見ることはしないうちはまた同じことを繰り返すのです。
作務はヴィパッサナー
作務はヴィパッサナーなので、先に概要を説明してからやった方がいいと思います。
なんでも姿勢で示そうとするから時間がかかるのです。
動作や感情にサティを入れてラベリングすることでメタ認知として抽象度が上がります。
パターン化されれば無意識でもレジリアンス(精神的回復力)が超高速になり、ストレスから解放されます。
外では自分どこに「コミット」してしまっているのか。
内では自分は誰の「役割」を引き受けてしまっているのか。
という内外の表裏一体の問題は常に内省して洞察する必要があります。