発達障害に典型的な、外部の問題に対して「私は大丈夫だから大丈夫」の解釈。
「なんで皆津波にあってるの?私は大丈夫なのです」「不細工に不細工と言って何が悪いの」
「一人称視点から脱却できてない(幼少期から脱中心化されてない)」ゆえにこのパターンが起こり、社会性欠如として浮き彫りになる。
個人だけで完結することならいいのだが、集団や組織が関わる課題解決において、自分だけの「生存認知バイアス」(自分だけは問題ない)をギリギリまでかけ続けてしまう。
「忙しい忙しい」と口先だけパニック障害
目の前のタスクで「忙しい忙しい」と口先だけパニック障害しながら、本筋の宿題へ目を向けない「先延ばし」する。
一人でやる分には問題ないのはその通りなのだが、この世は他者との相互関係の中で自己覚知するゆえに、自他は切っても切り離せない。
その避けられようのない外界との折衝の「生きづらさ」が、誰にも理解されないのでは?と社会的孤立「感」を生む。
傾聴する中で社会性と会話と想像力の3つの「特徴的の違和感」が出てくるので発達障害は分かりやすいが
認知フォルダがバラバラで、中身が一つのファイルしか保存されてない。
一つのファイルのみへこだわったり、単発フォルダが大量にあって宇宙の果てまで爆散してるので、これが精神病と相関が高い。
衝動性の高い行動力においてメリットは高いものの、「大きな系」での関係性と因果関係まで想像はできず、全て単発の新規フォルダへバラバラ保存、0か1、スイッチのオンオフ。
最初の先行インプットが神の真理になるので、行動の裏打ちに権威性を付与すると「誤った意思決定」を支持し続けてしまう。
達磨禅師のように足が腐っても座り続けていた方が、ずっと没頭フロー状態でゾーンに入滅しているので良かったのではと。
結果的に他者評価されただけで気付かれずに死んだ人も山ほどいたろう。
「8時になったら宿題をやろう」と言葉で言っても分からない
例えば、発達障害の場合「8時になったら宿題をやろう」と言葉で言っても分からない。
「8時」と「時計」と「宿題」がバラバラに脳内保存されてるから。
「「8時」と「宿題」は何の関係もない」「台所の時計と部屋の時計は違うから、何の関係もない」となってしまう。
関係性が結ばれていない。
これが一人称視点から脱中心化できてない所以であり、社会性なく自己中心的と言われる根底になる。
高らかに堂々とこの愚行をするので、自立して決断力があると勘違いされることがあるが、そんな高尚なものではない。
概念が言語野で論理的に統合処理されていない分、視覚野に依存する故、
実物の時計を目の前に持ってきて「この時計の長針が12、短針が8の形になったら宿題をやろう」と視覚的に見せないと理解できない。
バラバラ認知がコミュニケーション弊害を生む
学校や会社で失業したりストレスに苛まれたりする「人間関係の問題」の中身のほとんどがこれ系で
障害の有無や自覚無自覚問わず、自他と折衝したときのコミュニケーションの齟齬が明らかに意思決定でおかしくなっている。
「私は大丈夫だから大丈夫なんです」という意味不明な個々人の「誤った意思決定」にお互いに巻き込まれているのである。
せっかく、連立方程式を解いたり、電車の時刻表みたり、武器の型番を覚えたり、平行に重なる電線の二等辺三角形みて、フロー状態でゾーンに入り、神との対話をして過集中恍惚してたのに
「(神と対話しちゃ)ダメでしょ!」とグレート・ママンやクソ親父が叩いて台無しにして、本当に可愛そうなのです。
私の目には「この人はこの問題を見ているのだけど、本人の発達的な問題で、見ようとしない、見ているふりをする、隠す、嘘つく、見当違いのことをしている」という思考パターンの「集合」と「ベクトル」が可視化して観えている。
この世界観を共有できれば、もう円滑に物事が随行出来るのではないかと