「思想」を変える気は毛頭なく、そんな他人の考えた遠い依存対象はどうでもいいのだけども、
統一教会のような反社なカルト宗教や霊感商法に無自覚に気づかない「知能」の低さと、脳の発達の未熟さは、病理疾患と同じ文脈で懸念してしまう。
「思想」は本来どうでもいい
友人にも様々な思想の人はいるが、別に差別的にもならず仲良くやってるのは、
知能>性格>人格>思想
の順で優先度が低いので、どうでもいいから。
他人の考えた思想というのが、自我と安易に結びつくほど薄っぺらではない程度の知能を持ってる前提で。思想を操作できる知能があるか。これがないと避ける
思想は「考え」から構築されるが、その思想に至るまでに自分の血肉の身体性とリンクしてるか?が重要。
自分の過去の体験なしに思想を言われても、自我が未形成で脆弱だから「外部から感染した」としか思えない。単なる理論武装で、熱がない。
創作物に関しても同じ。上っ面の綺麗事に逃げを感じる。
見下しの復讐心に燃える神経症者や、
次段階で燃え尽きて骨抜きにされたらうつ病者などの精神病者を見ていて、
嫌な記憶は消すか、塗り替えるしかないのに、怖すぎて自己内観しないために、自身のやりたい主体的な行動動機に「着火」させずにゴネゴネ遠回しに小賢しいことやるのが、まどろっこしくなる