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私(時田憲一)が大学生の頃、稲垣勝巳氏と輪廻転生はあるかどうかで話したことがありました。

主題は釈迦は魂の存在を否定しているか?

です。

稲垣勝巳プロフィール
1948年、岐阜県生まれ。岐阜大学教育学部国語国文学科卒業。上越教育大学大学院教育基礎コース修士課程修了。岐阜県公立学校教員として岐阜県教育委員会飛騨教育事務所指導主事、東濃教育事務所指導主事、岐阜県可児市教育委員会主任指導主事を経て、可児市中学校教頭を最後に早期退職。その後、「稲垣勝巳メンタルヘルス研究室」を主宰、臨床催眠療法に従事し、現在に至る。学校心理士、日本教育催眠学会理事、同研修委員長

時田憲一プロフィール
岐阜県生まれ。名古屋大学教育学部人間発達化学科心理社会行動コースを経てリバータリアン心理学研究所(Libertarian Psychology Institute:LPI)を創立。世界初のリバータリアンカウンセラーを名乗り、心の自由を最大限に重んじる心理学を広める。LPI所長、心理学者・カウンセラー(認定心理士)、統計ビッグデータサイエンティスト、起業家、株価サイト金投資専門トレーダー、SAM前世療法士、社会福祉士・医療ソーシャルワーカー・看護師、Webデザイナー、自作パソコンデザイナーなど幅広く活躍している。

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【稲垣勝巳】

龍樹は別として、釈迦は魂の存在を否定しているのでしょうか。

◆ブッダの輪廻観

輪廻するということは、普通に考えれば、輪廻する主体が存在するということである。そして普通に考えれば、それは肉体とは別の「精神的主体」、つまり「霊魂」ということになる。後の唯識派のようにアクロバティックな説明を作らない限り、生まれ変わるのであれば、死後に存続する主体、つまり霊魂を想定しなければならないだろう。
もちろん、ブッダの哲学は、「すべては因果的関係性の上に成り立っていて、確固不変の実在はない」(=縁起説)というものが一つの柱となっているので、その意味では「実在としての霊魂」は否定せざるを得ないかもしれない。ブッダは「我も存在しない」(=無我説)と説いたともされているから、死後に存続する精神的主体などというものは認める余地はなかったと思われるかもしれない。
ところが、ブッダの言説の中には、どうも霊魂とその生まれ変わりを述べているとしか思われない表現も散見されるのである。
まず「無我」について見てみよう。

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《「物質的なかたち(色)」「感受作用(受)」「表象作用(想)」「形成作用(行)」「識別作用(識)」は、「病にかかり」「思うようにならない」がゆえに、我(アートマン)ならざるものである。それらは「常住ならざるもの(無常)」であり「苦」であり、われの我(アートマン)ではない。このように正しく見なしたら、それらを厭うて離れる。それらから離れたら貪りから離れる。貪りから離れるから、解脱する。解脱した時に「すでに解脱した」と知る。「生存はすでに尽きた。清らかな行ないは修せられた。なすべきことはなされた。もはやこの世の生存を受けることはない」と確かに知る。このように述べられた時に、集った五人の修行者は執着なく、もろもろの煩悩から心が解脱した。》(要約、相応部・律蔵)

これは全然「無我」説ではない。素直に読めば、貪りの原因となる「色・受・想・行・識」は「我(アートマン)」ではない、と説いているのであって、我というものはないなどとは言っていない。というよりむしろ「現象として現われている『われ』は、本質的『われ』ではない」として、「本質的私」(=霊魂)を想定しているような響きがある。ブッダのこの複雑な主体認識は、「輪廻していく主体」と「現象している我」との間にある摩訶不思議な齟齬を何とか表現しようとしているのではないだろうか。

また、「人がそれぞれの業に従って輪廻していく」ということをストレートに述べた言葉もある。自らの悟りの内実について、弟子にではなく、一人のバラモンへの告白したというものである。

《われは種々の過去の生涯を想いおこした。……われは清浄で超人的な天眼をもって、もろもろの生存者が死にまた生まれるのを見た。すなわち、卑賤なるものと高貴なるもの、美しいものと醜いもの、幸福なものと不幸なもの、としてもろもろの生存者がそれぞれの業に従っているのを見た。》(阿含経)

自らの過去生を思い出し、また「超人的な天眼」によって様々な人々が生まれ変わる姿を見たというのである。「様々な人々」が過去の人なのか、現在・未来も含まれるのかは明らかではない。

さらに、晩年になって故郷への旅に出たブッダは、ナーディカ村で一人の信者から世を去った弟子たちの死後の消息を尋ねられて、こう答えている。(以下は要約整理したもの)

《サールハはもろもろの汚れが消滅したがゆえに、すでに現世において汚れのない〈心の解脱〉〈智慧による解脱〉をみずから知り、体得し、具現していた。
尼僧ナンダーは人を下界に結びつける五つの束縛を滅ぼし尽くしたので、ひとりでに生まれて、そこでニルヴァーナに入り、その世界からもはやこの世に還ってくることがない。
在俗信者であるスダッタは、三つの束縛を滅ぼし尽くしたから、欲情と怒りと迷いとが漸次に薄弱となるがゆえに、〈一度だけ還る人〉であり、一度だけこの生存に還ってきて、苦しみを滅ぼし尽くすであろう。
スジャーターという在俗信者は、三つの束縛を滅ぼし尽くしたから、〈聖者の流れに踏み入った人〉であり、悪いところに堕することのないきまりであって、かならずさとりを達成するはずである。》 ブッダはそれを四つのタイプに分けて答えている。①現世生存中にすでに解脱していた、②死後の世界(天界?)で涅槃に入りもうこの世に生まれ変わってこない、③もう一度だけ生まれ変わってくる、④いつかはわからぬが涅槃を得て生まれ変わらなくなることが決まっている。
これは弟子たちの「悟りの深さ」を教えるための単なる譬えなのだろうか。それともブッダは「超人的な天眼」をもって、彼らの未来を見通していたのだろうか。

同じく故郷への旅の途次、バンダ村での説法では、弟子たちに向かってこう述べている。

《四つのことわり、すなわち戒律、精神統一、智慧、解脱をさとらなかったから、わたしもお前たちも、このように長い時間のあいだ、流転し、輪廻したのである。いまはさとられた。生存に対する妄執はすでに絶たれた。もはやふたたび迷いの生存を受けるということはない。》

「私もお前たちも、しくじったんだ、だからこうやってうろうろ生きているのだ」と言っているわけで、なかなかユーモラスな発言である。ここでも、「私もお前たちも」輪廻し続けてきたとはっきりと述べられている。

また、「三論」と言われる教説もある。それは、
①慈悲の心がけをもって困窮者や宗教者などに施しをなすこと
②殺生・盗み・嘘・姦淫などをせず、道徳的な生活を送ること
③以上のようなことを行なえば来世は「天」に生まれ幸福な(「生病老死」の苦の少ない)生活を送ることができる
というものである。ブッダは、あまり宗教的な知識のない人々には、まずこの教えを説き、これが理解できたらより抽象度の高い「四諦」などの教えを説いたという。
水野弘元博士はこれについて、「当時のインド思想における最も健全穏当な学説であって、必ずしも仏教独特のものではなかったのであるが、仏教の正しい教理学説を理解するための、予備的入門的な知識および体験として役立つものであった」と「入門」性を強調している。
しかし、いくら入門的・予備的なものであっても、嘘を語ってはいけないし、語っているわけでもないだろう。ブッダにとって、この説は基本であった。良い行ないをすれば天界に行く、悪い行ないをすれば現世の苦の中にとどまり続ける。この「業報」の思想は、徹底してブッダの思想の基礎なのである。ただしブッダは、「天界」への再生を超えて、輪廻転生の輪から脱するという高度な目標を設定したということである(ただしそこがどのような場所なのか、あるいは無=消滅なのかは説かれていない)。

これらの言葉は、明らかに「生まれ変わり死に変わる」、肉体とは別個の精神的主体があることを表現している。
ブッダおよび初期仏教において輪廻転生が「前提」であったことは、改めて考えればさして異様なことではない。前三世紀頃には「ジャータカ(本生譚)」がさかんに創られ、ブッダの前世物語が語られた。原始仏教を比較的忠実に継承した上座部仏教でも、輪廻は基本教義になっている。仏教から輪廻を追いやったのは、大乗仏教の中論・唯識の「反実在論哲学」であり、さらにそれを賞揚した近代仏教である。

ブッダが得たとされる「悟り」も、やはり輪廻との関わりにおいて捉えられなければならないだろう。近代仏教学では、「悟り」はある種の「哲学的認識」「心理的問題解決」として捉える傾向がある。先に引いた中村元博士の「さとりの内容が種々異なって伝えられているにもかかわらず、帰するところは同一である。既成の信条や教理にとらわれることなく、現実の人間をあるがままに見て、安心立命の境地を得ようとするのである」という説は、その一つの典型である。同じく前出の荒牧博士の「禅定や三昧によって表層意識を消滅させつつ深層意識を自覚化していき、最深層意識をも消滅させる」といった説明も同様である。また、こういった見解もある。

《釈迦の教義は人の心の悩みを解決することをめざした。心の悩みの解決は祭式のような外形的行為によっては達成されない。各人が自己の内面から行う変革によらねばならない。そのための基本的な出発点となるのが四諦・八正道や十二因縁の教義である。これは、一言でいえば、苦悩のよってきたる淵源を追求し、その淵源(おそらく〈我あり〉との妄執)を取り除くことを教えている。これは当時にあっては驚くほど科学的・合理的な態度である。しかも、自己存在の問題について、現代の深層心理学を先取りするような先見性を示している。これは仏教発展の背後に都市と商人階級という進んだ社会があった事実を反映しているかもしれない。》(定方晟「仏教」CD版世界大百科事典)

こうした見解は、近代的な主知主義・心理主義のバイアスが強すぎるのではなかろうか。ブッダの基本的問題意識は「生は苦である→しかし生を絶っても輪廻があるため問題解決にはならない→輪廻を超えなければならない→輪廻の原因は業・妄執である→業・妄執を消し去るためにはそれが実体のないものだと認識する必要がある→それを認識するためには悟りと正しい行ないが必要である」という連関であって、「安心立命の境地を得ようとする」ことや、「人の心の悩みを解決する」ことや、「自我的な人格から解脱して自由になる」ことが最終目標なのではないと思われる。ブッダの目標は、「輪廻を脱するために業・妄執を消去する」ということであったのであって、その唯一の手段として、「戒律、精神統一、智慧、解脱をさとる」ことがめざされたのである。

だが、このブッダのテーゼは、いくつかの難点をも孕んでいる。一つは、「苦を脱するためには苦が実在しないことを知ることである」「私が輪廻を脱するためには私が実在でないことを知ることである」という、矛盾ぎりぎりの論理であることである。目的節には「苦」「私」が存在し、主節には「苦」「私」が存在しないものだと主張される。特に後者では、「私が実在でないのならば何が輪廻を脱するのか」という論理的矛盾さえ突かれかねない。これは言葉遊びをしているのではない。後に「空の哲学」が発展して、「反実在論」が前面に出てくると、「苦」や「輪廻解脱」は後景に退いてしまうことになる。ブッダの求道の出発点であるそれらが抜け落ちると、仏教は「哲学」になってしまう。そして実際に近代に入って、近代仏教は、輪廻問題を捨象した哲学ないしは心理学に傾いていったわけである。
もう一つは、「知る」ことが果たして「輪廻解脱」の解決策になるかという問題である。ブッダの発言には「正しく知った、だからもう解脱した。もう生まれ変わることはない」という表現が頻出するし、弟子となる人々がブッダの説を聞いて、「心が煩悩から解脱した」といった記述もある。しかし、「真理を聞いて理解した」から業や妄執は消滅するのかという点は一般的に考えていささか疑問が生じる。もちろんブッダもそのことは認識していて、「八正道」によって輪廻を動かしているモメント(つまり欲や無明)をひとつひとつ取り除いていかなければならないとしている。つまり、悟りと八正道は並行していなければならず、業や妄執を正しく認識し、かつそれを滅するような行為をしていかなければならない、ということになる。これもまた、近代仏教では軽視されている側面のように思われる。近代仏教では「悟り」に力点が置かれ、ブッダは「関係主義(非実体論)」や「因果論」という真理をはるか古代に発見し提唱した天才哲学者であるというイメージが前面に出てくる。しかし、ある命題なり哲学的世界観を獲得したからといって、それが「苦」や「輪廻」の解決になるのだろうか。

◆唯物論にどう向き合うのか

近代仏教学は、歴史学・文献学という強力な学問を援用して、日本の仏教理解に革命的展開をもたらしたことは間違いない。しかし、あえて指摘すれば、それは近代的学問であるがゆえに、実証主義的科学や唯物論の影響を受けている。近代仏教学が輪廻問題を避け、霊魂問題をはなから相手にしないのは、そのせいではないだろうか。そして、そうした近代仏教学は、ブッダの教えが仏教として発展していく際に起こった様々な「この世的ではない現象」についても、無視する傾向がある。
たとえば、釈尊伝には、いくつかの「奇跡物語」が含まれている。
その最も劇的なものは、ブッダの教団が一気に大教団となった事件である。
ブッダは菩提樹下の悟りの後、何人かの支援者を得たようだが、正規の弟子や教団はなかなか形成されなかった。ところが、ブッダはどういう意図だったのか、マガダ国で千五百人の信者を抱えていたカッサパ三兄弟に「道場破り」をかける。カッサパの宗教は火を崇拝する、きわめて儀礼的なものだったとされ、バラモン教の一派と見なされているが、ひょっとするとペルシャ由来のゾロアスター教の集団だったかもしれない。このカッサパとの対決は、超能力をこれでもかと繰り出すものだった。まず、ブッダは拝火堂に入り、そこに住む毒蛇を降伏させる。次に、四天王・帝釈天・梵天が輝きとともにブッダのもとに現われる。さらには、儀式のために行なう薪割り、点火、消化を、念力でできなくさせ、信者たちが困ると、それらを一瞬のうちに完了させて見せる。あるいは、大雨を降らせあたりを洪水にし、自らの周りだけ水を退け、乾いた場所を作る、などなど。
結局、カッサパとその千五百人の信者たちはこれによってブッダの信者となり、ブッダの大教団が形成される。後々ブッダの教団は千七百五十人と言い習わされるのだが、そのうちの千五百人がここから来ているという、実に仏教発展史において重要な出来事である。しかし、近代の仏教学者は、このことをあまり論じたがらない。ブッダは崇高な真理を説いて信者を獲得したのであって、超能力で人を屈服させるなど、ありえるものではない、ということなのだろう。
ほかにも、神霊のような存在がブッダの傍らに来臨するといったことは度々記されているし、パータリプトラ村では、「わたしは清らかな超人間的な天眼をもって、千もの多くの神霊たちがパータリ村に敷地を構えているのを見た。優勢な神霊たちの土地には優勢な国王や大臣が、低位の神霊たちの土地には低位の国王や大臣が、住居を建築しようとするだろう」といった発言をしている。

こうしたことを古代人の妄想とか、単なる偉大化のための脚色と捉えるのが近代的学問であるが、唯物論に反旗を翻した近代霊学(心霊研究・スピリチュアリズム)の立場から見れば、別に起こっても不思議ではないことである。目に見えない存在が姿を現わしたり、様々な物質を念によって操るということは、しばしばではないが、ある程度の頻度で起こっているものである。もちろん、教祖伝には、偉大化・神格化を目的とした奇跡譚の飾り付けがあることは否定できない。しかし、そういった要素をすべて却下してしまうのは、逆の偏向なのではないだろうか。
前に引用した「悟りの内実」の自己告白、「われは清浄で超人的な天眼をもって、もろもろの生存者が死にまた生まれるのを見た。……もろもろの生存者がそれぞれの業に従っているのを見た」という体験も、近代霊学から見れば、非常に高次な霊的体験(脱魂による高次他界体験)だと捉えられる。ブッダが輪廻を解脱したというのが本当であるなら(こういう表現は失礼だが)、それは哲学的認識を得たからではなく、高次の世界(天界)と交流し、さらにそれを超えた涅槃の世界(スピリチュアリズムで言えば、人間が生きたまま赴くことがほぼ不可能な光の世界)を直接に体験したからではないだろうか。

霊学と言うと怪しげなものに受け取られるが、十九世紀後半以降、欧米においては、霊的諸現象の実証的研究(心霊研究・超心理学)がなされてきた。それは、きちんとした知性を持った学者によって、非常に厳密で客観的な研究の蓄積である。
面白いことに、そうした研究の中で、最も強力な証拠が得られているのは、「生まれ変わり」問題である。ヴァージニア大学精神科教授イアン・スティーヴンソンは、世界中を調査し、二千例を超える「一定の証拠を伴った生まれ変わりの事例」を収集・発表した。前世記憶の現実との符合はもちろん、前世の傷や身体的特徴の持ち越し、さらには前世の外国語を話す事例など、その実証性は驚くべきもので、一部の科学者もその信憑性を認めている。さらにアメリカでは催眠によって前世を想起し、様々な心理的・身体的問題を解決する「前世療法」が隆盛し、この影響は日本にも伝わった。こうした動きがあって、世論調査によると、アメリカでも日本でも、半数前後の人が「生まれ変わりがあると思う」と答えている。特に、「再生」を伝統的にタブーとしているキリスト教世界で、支持層が増加していることは注目される。

近代仏教学がすり寄った「唯物論的世界観」が真実だという保証はない。この問題はタブーであるため、なかなか論じられることがないが、もし「唯物論」が真実であるのなら、「超越的世界」や「目に見えない存在」を考慮の中に入れるすべての宗教は、存在理由を失うことになるだろう。
「あの世」や「霊」を信じた昔の人間は迷妄だったのか、そうでないのか。それは誰にも審判できない。生まれ変わりや霊魂を認める立場が、愚昧であるというのは、近代の思考である。近代以前に生きたあまたの人々を愚かだと決めつける権利は誰にもない。もちろん近代的思考を取ることも可能だが、それを取らないという立場もあり得るはずである。
霊魂や他界の問題を不問にして哲学や心理学に接近するのか、それとも改めて霊や輪廻に向き合うのか、仏教の選択は、なかなか難問のように見える。

「生まれ変わり」が科学的に証明された!-ネパール人男性の前世をもつ女性の実証検証-

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【時田憲一】

ここではブッダ自身の輪廻観には触れず、龍樹の空と縁と唯識の話を記載し、それを起源とする現代の日本に伝わる仏教(大乗仏教)の中道空を説明しました。

釈迦は空や唯識なんてことは一切、説いていないからです。

そこで釈迦の輪廻観についてまとめて見ることにしました。

先にお詫び致しますと、自分でもまとめていたら長文になってしまいました。
後見の方々のために改めて概要を整理した箇所が多いですが御了承下さい。

仰る通り、実は、釈迦は”魂の存在を肯定している”と思います。【輪廻説(輪廻肯定説)】

ただ、同時に”魂の存在を考えるな”と言っています。【無我説(輪廻否定説)】

ここが本当に難しいところですね。

このことに関して、僕もいくらかの文献に目を通しましたが、仏教学者の中でも意見が分かれており、賛否両論です。

まず【輪廻説】から整理しておきたいと思います。

ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫)

引用にある相応部(雑阿含経)律蔵を「無我説ではない」「輪廻転生をストレートに表現している」と解釈するのは正しいと思います。
阿含経は、釈迦の死後、弟子のマハーカッサパやアーナンダが教説を結集して作った経典ですが、この経典はパーリ語を使用していた釈迦が語らなかったはずの人工語であるサンスクリット語で記されて伝わっているという謎があり、更にこの原典となった「ニカーヤ」とは一般に意訳も多く、明らかに原語にない言葉が挿入されていることや、内容の譬え話も含めて、現在の日本に伝わっている漢訳の阿含経に至っては信憑性が極めて薄いがために、その解釈は多様性に溢れています。
ゆえにその多様性と曖昧さを逆手にとって勝手に輪廻転生を肯定的に解釈した「阿含宗」という新興宗教団体でさえ存在してしまいます。

しかし、その内容を純粋に見れば、釈迦の弟子は「無我説ではなく輪廻転生をストレートに表現している」と解釈して正しいと思います。
付け加えると、雑阿含経の中の「仙尼経」の中でも「業報あり、作者なし。此陰(五蘊)滅し終わりて異陰(余蘊)相続す」と同じように輪廻転生を肯定するような言葉が載っています。

しかし、これに対して「五蘊は仮和合であり無我のもの」。
つまり五蘊(ごうん:識・受・想・行・識)は仮和合(仮定)だ。
=アートマン存在を否定している=無我だ!という解釈があります。

これが【無我説】です。

つまり、釈迦はバラモン・ウパニシャッド思想の根底にある自我という固定的な実体を否定したのだから輪廻転生は認めていないのだ。という解釈がなされることが多数派です。
これも純粋に観れば正しいと思います。どちらにしても、個人的に思うのは、結局、お釈迦様の説いたのは「輪廻説か?無我説か?」というのは決着が着かないことだと思っています。

もちろん、龍樹の空観の立場から見れば、輪廻説と無我説は本来、矛盾しないです。
それが矛盾しているように見えるのは、
「個」としての生命、魂、あるいは、
「個人」としてのパーソナリティーというものを「実在」として捉えているからです。
そのような「個」としての輪廻は究極的には存在しないです。
しかし、一時的にそういうものが存在するかのように仮に見えるということはあります。
無我説でありながらも、輪廻説の立場でも立てます。
哲学的であっても、心理学的なバイアスが掛けられていると解釈されても、仏教の空は超論理学の空(唯識論)です。唯物論(機械論・無神論・無宗教)でもなく、観念論(唯心論・汎神論・汎心論)でもないです。

釈迦自身が語ったことというのは極めて少なく、しっかりとパーリ語で書かれた最も最古のお釈迦様の語録である『ダンマパダ(法句経:強烈にバラモン教とヒンズー教の批判をしている最古の原始仏典)』か、ギリギリ「スッタニパータ」などが手がかりになるくらいです。

最古の経典から抽出された釈迦の基本思想で、輪廻説派も、無我説派も共通しているのは、
『縁起、因縁(因果律)、四諦、八正道』これのみです。
これ以上でもこれ以下でもなかったと思います。

釈迦は菩提樹の下で単純因果の因果律(十二因縁)を悟りました。
ここから、仏教の根本は因果律になりました。

しかし、死んで因果律が絶たれてしまっては、この因果応報が成立しません。

因果律の論理が崩れると言うことは、仏教自体の崩壊も意味します。

【だから実のところ、輪廻転生があって、今世での業(カルマ)は、来世まで持ち越すと、説明しないと論理が崩れてしまうのです。】

そこで、インドの哲学者は、肉体の根底に【アートマン(本来の自我)という実在】を想定しました。
肉体が死んでも、アートマンは生まれ変わり死に変わりして”実在を続ける”としていました。
このバラモン教(梵天:ブラフマン=世界を創造・破滅を繰り返し、輪廻転生や解脱をも成立させる神)、ひいてはヒンドゥー教の輪廻転生の思想を、
仏教は受け継いで、更に精密化(六道輪廻:天道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道の六道を輪廻し続けるという話)してきました。 これ以降の輪廻転生は、仏教の決擬論(分類)で41の位のある菩薩(修行を積むごとに上の位に上がる)でトップに位置している”弥勒菩薩”は56億7000万年後に修行が完了して仏になることが決まっていますが、普通の人間界の人間が菩薩の位を一つ上がるだけでも気の遠くなるほど長く莫大な容量の修行をする必要があります。
これ(↑)は大乗仏教の話ですが、小乗仏教でも、この世の迷いを断じきった”聖人”に4階級あり、最高位の阿羅漢(あらかん)になって、ようやく輪廻転生しません。

更に興味深いのは、法華経によれば、
仏(如来)の教えによらないで自ら悟りを得た人である独覚(どっかく:縁覚とも言う)や、
仏(如来)の説教を聞いて悟りを開いた声聞(しょうもん)の方が、
神々の帝王シャクラ(帝釈天)や、四天王(増長天、持国天、毘沙門天、広目天)や、世界の主の梵天(ブラフマン)などの天道に属する天上人よりも、上位です。

つまり図にするとこんな感じです(↓)

以下低俗<人<天上人(帝釈天、梵天、四天王)<独覚、聞声<菩薩<仏、如来

つまり、人道の上位にあたる天上人(帝釈天、梵天、四天王)でさえ、輪廻六道の一つである天道(天上人)に属する時点で、煩悩から解脱できない罪人であり、ゆえに輪廻転生し、涅槃には至らずに輪廻転生するわけですね。

しかし、アートマンの実在を認めて、仮に因果律の苦行の話の通り、輪廻も苦だと釈迦が考えていたとすると「苦を脱するためには苦が実在しないことを知ることである」「私が輪廻を脱するためには私が実在でないことを知ることである」という話と矛盾してしまうわけですね。

今となっては、お釈迦様が輪廻転生を説いていると断言することも不可能ですし、
逆に、輪廻転生を説いていないと断言することも不可能です。
もはや個人の解釈に任せられるのだと思います。

だからこそ「あるともいえるし、ないともいえない」という空の思想が、東洋の超論理学の中道で安定して伝わってきたのです。
西洋のアリストテレス以降の「あるか、ないか」の二者択一の形式論理学が崩壊して「仮定に過ぎなかったのだ」と、やっと科学が空の仏教に追い着いてきて現代に至ります。

参考になるか分かりませんが、僕が17歳の時に直接、仏教学者のひろさちや氏に教えて頂いた解釈が気に入っているので掲載させて頂きます。

「地獄に堕ちる人、堕ちない人」ひろさちや 2002年 ぶんか社

(転載開始)

結論から言うと釈迦は「死後の世界を考えるな!」と説いています。
なぜなら死後の世界があるかないかをわれわれの人間がいくら考えても分からないからです。
つまり「わからないことをわからないことだとするのが、わかること」。
しかし、釈迦は一方で善行を積んだ人間は死後に天界に生まれ変わり、悪行を積み重ねた人間は地獄に堕ちると言っています。
天界や地獄について触れているのですから、釈迦が「考えるな!」と言っていることは矛盾します。
しかし矛盾するからと言って、それが間違いだとは言い切れません。
もっと深い意味が隠されていることも多くあります。

このことについて私は次のように考えます。詭弁ではありません。

例えば、3から5を引いたらいくつになるか?と問われてマイナスを知らない小学校の1、2年生なら「引くことはできません」と答える。
彼らにとってはそれが正解です。
それと同じで「考えるな!」と言っても理解できない人に対して死後の世界を説いたものです。「死後の世界」を考えさせないために設定されたのです。
浄土では「南無阿弥陀仏」と唱えれば浄土へ行けるので「死後の世界」について悩む必要が無くなります。
死後の世界を「考えない」という方便になります。
考えずにいることのできる精神的強さを持っている人はいいが、われわれ凡人にとっては方便の方が説得力があるし、そちらの方が生きやすいのです。
だからこそ死後の世界はなくてはならないのです。

(転載終わり)

僕自身もこのように考えております。
かといって、奇蹟を起こせる人も目の当たりにしたことがありますし、霊能者に透視で絶対に自分しか分からないことを(もちろんコールド・リーディングやホット・リーディングを用いずに)的中させられて驚いた経験もあります。
だからこそ、イアン・スティーヴンソンなどの輪廻転生を肯定できるような現代科学的な手法に沿った仮説が、現代科学として親和性が高いと感じ、興味深く思っています。

紹介した論者は、以下のまえがきを書いています。私の宗教に対する立場もこの論者に同調しています。

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【稲垣勝巳】

◆近代仏教と霊魂

現代において、「霊」「霊魂」「死者の魂」といった言葉は、公の表現には載りにくいものである。
これは端的に言えば、実証主義的科学や唯物論が隆盛を極めているからである。「霊」の問題は、実証や科学的検証の対象とはならないし、むしろそれらが依って立つ基盤を崩すものであるから、無視・排除の対象となるのである。実証主義的科学や唯物論がなぜここまで隆盛してきたのか、それらは本当に正しいのか、といった問題は、あまりにも大きいものなので、ここでは触れない。
では、伝統的にこうした主題をあつかってきた宗教ではどうか。
両極の姿勢があるようで、一方には「霊」の問題を前面に押し出す宗教があり、もう一方にはそれについて無視・沈黙を保とうとする宗教がある。新興宗教や民俗信仰はおおむね前者であるが、後者には、一部の仏教や神道も含まれるように思われる。
特に近代の仏教では、「霊」の問題は回避される傾向が強いように見受けられる。なぜそうなのかは複雑で理解しにくいところがあるが、最も大きな点は、原始仏教や初期大乗仏教に「霊」を否定する(ように見受けられる)言説があったことではなかろうか。
言うまでもなく、近代仏教学は西洋のキリスト教研究や歴史学の影響を受けている。西洋のキリスト教研究が「歴史的イエス」を探究したように、近代仏教学は「歴史的ブッダ」を探究した。歴史学がキリスト教教団の歴史的展開を明らかにしたように、近代仏教学は仏教の歴史的変遷を明らかにした。
この中で、「霊」問題に関しては、二つの大きな問題が浮かび上がってきた。
一つは、ブッダが「霊」問題に対し、「無記」と否定的に言明したことである。
もう一つは、初期大乗仏教の「中論」や「唯識」の思想において、やはり「霊」問題は否定的に扱われたことである。
ブッダは、「霊の問題は、語っても意味のないこと(答えの出ないこと)だから語らないことにする(無記)」と述べたとされる(ただし「語らない」と言ったので、「ない」と言ったのではない)。さらに「諸行無常・諸法無我」=「すべてのものは変化し、実体は存在しない」として、個人的主体の否定と解釈される考えを述べているので、当然、死後に存続する精神的主体(霊)も否定したとされる。
中論では、ブッダの反実体論をさらに過激に推し進め、あらゆる実在を否定したために、霊魂といった問題が発生する余地もなくなった。唯識では輪廻転生を認めたが、転生する主体は何かという問題に非常に難解な解釈をほどこし、単純な霊魂の生まれ変わりを否定した。
こうした論点を梃子にして、近代仏教学は、「仏教は形而上学(この世を超えた世界を語る思想)ではなく、哲学である」「仏教の本質は悟り(叡智の獲得、ないしは至上の心の状態)であり、あらゆる言説や修行はそれに到る手段である」という姿勢を取るようになった。

《仏教の歴史を通じて、出家であれ在家であれ仏教者たちは、禅定もしくは三昧に入るように修行し、禅定や三昧において仏教的真理を知る知恵を得、悟りを悟っていたと考えられる。禅定や三昧によって表層意識を消滅させつつ深層意識を自覚化していき、最深層意識をも消滅させると同時に、彼自身の実存においてあらゆる衆生にゆきわたる根本真理を知る知恵を得、悟りを悟ったのである。したがって悟りとは、そのようなしかたで自我的な人格から解脱して自由になり、衆生に対して無礙自在にはたらく新しい仏菩薩的人格へと生まれ変わることであるといってよい。》(荒牧典俊「さとり」CD版世界大百科事典)

《第一に仏教そのものは特定の教義というものがない。ゴータマ自身は自分のさとりの内容を定式化して説くことを欲せず、機縁に応じ、相手に応じて異なった説き方をした。だからかれのさとりの内容を推しはかる人々が、いろいろ異なって伝えるにいたったのである。
第二に、特定の教義がないということは、決して無思想ということではない。このようにさとりの内容が種々異なって伝えられているにもかかわらず、帰するところは同一である。既成の信条や教理にとらわれることなく、現実の人間をあるがままに見て、安心立命の境地を得ようとするのである。(後略)》(中村元『ゴータマ・ブッダⅠ』)

ここには「死後の問題」も「霊魂」も登場しない。ブッダおよびその後裔である仏教は、「反超越論的哲学」の旗手となる。そしてこうした近代仏教学の姿勢は、隆盛してきた実証主義的科学や唯物論と「融和的」であった。神や神々や霊といった超越的存在が公的な言説から排除されていく中で、仏教はそうした「超越存在」を捨象した宗教として、自らをアピールしたのである。いささか揶揄的なニュアンスを込めて、仏教が「無神論宗教」とか「最先端の科学と融和する宗教」と言われるのは、こうした近代仏教の「反超越論」(神や霊や他界を語らない)があるからである。
こうした「近代仏教」が真なのか否かは置いておくとして、ここで齟齬が生じたのが、民衆に密着した現場であった。言うまでもなく、中世以来、日本仏教は死者供養を梃子に隆盛してきた。民衆にとって、「お経を読んで死者や迷っている霊を成仏させてくれる人」が僧侶であったのだが、近代仏教では、そうした問題は「本来の仏教ではない」とされてしまったのである。
現場の困惑は察せられる。一方には民衆の「死者成仏」「除霊」「祖先祭祀」「呪力信仰」といった「霊問題へのニーズ」があり、もう一方には近代仏教の「反超越論的哲学」がある。このぶつかり合いの中で、どのような振る舞いが可能なのか、外部からはなかなか想像が及ばない。

筆者は基本的に、宗教とは「この世を超えた世界(霊界、浄土、彼岸、天国など)に関する知識と行為」であり、「この世を超えた存在(死者霊、諸種の非人間霊、天使、神など)の実在を想定する」ものであると捉えているが、仏教(特に近代仏教)のあり方はそれに根本から異を唱えるものであるように見える。果たしてそうなのであろうか。
もちろん、仏教全体にわたってそれを検証することはできない。そこでここでは、ブッダの問題に関してのみ、いささかの検討を加えてみることにしたい。果たして「お釈迦様は霊魂を否定したのか」という問いである。

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【時田憲一】

やはりこれに関しては仏教学者でも解釈が分かれますよね・・。
個人のそれぞれの解釈があってそれで良いと思います。

釈迦の弟子の書いた阿含経の「業報あり、作者なし。此陰(五蘊)滅し終わりて異陰(余蘊)相続す」をそのままストレートに解釈して、釈迦は輪廻転生を説いていたのだという前提で話を進めることも出来ますし、

同じく阿含教の「業報あり、作者なし。此陰(五蘊)滅し終わりて異陰(余蘊)相続す」を読み解いて、素直に輪廻転生を否定していたという解釈もできます。

今となっては釈迦自身が輪廻を断言したのだと断言することは不可能ですし、釈迦は輪廻を断言していないのだと断言することも不可能です。
これ以上のことは、個人の解釈に依存すると思います。

ただ、少し気になったのは、どちらかというと仏教が実証主義的科学の唯物論に融和してきたのではなく、唯物論が仏教に(結果的に)融和してきたのだと思います。

なぜなら唯物論が出てきたのは17世紀頃からで、仏教の空の思想の龍樹は2世紀です。

近代に入ってから、仏教が都合良く唯物論(科学)に乗っかって口裏を合わせたのではなく、元々あったものに、結果的に科学の方が似てきたのです。
だからこそ、近代に入ってから近代哲学の言葉で、空の思想は唯物論だ、ニヒリズムだ、都合良く科学に融和してきたのだ、と勘違いされて過激に批難された歴史的な事実があるのだと思います。

唯識は確かに否定はしていますが、この唯物論とは異なります。
釈迦の説いた”因果律”を、同じく釈迦の説いた”因縁”で説明するもので、一刹那の消滅と、一刹那の存在を説くものです。
有でもあり無でもあるので、どちらにも寄っていません。
否定するところだけ抜粋すると否定に見えますし、肯定するところだけ抜粋すると肯定しても見えます。

<世の中の泡沫(うたかた)の如しと見よ。世の中はかげりおうの如しと見よ。世の中をこのように観ずる人は、死王もかれを見ることがない> ダンマパダ 13-170 岩波文庫

ブッダの真理のことば・感興のことば(ダンマパダ) (岩波文庫)

元々、釈迦のこの言葉が、のちの龍樹の唯識論の起源になっていきました。

釈迦自身は、差別社会であるバラモン教のバラモン階層を徹底的に嫌っていたことは周知の事実で、
因果律(善行・悪行)によって輪廻転生して来世での社会階級も決まるということも嫌っていたと考えられます。
しかし、あくまで輪廻で決まる社会階層説自体を嫌ったのであって、輪廻自体へは何も感想を述べていません。かといって無いとも言っていません。
だからここで、この解釈の論争が起こってくるのだと思います。

それ以前は、御紹介頂いた論者の述べるとおり「この世を超えた世界を語る思想」を語っていたと思います。

そして付け加えれば、霊を成仏して霊問題を安心させると言うよりは、霊を成仏させてほしいという民衆のニーズに応えることで、霊だけでなく民衆も安心(成仏)させるのが僧侶の本質的な目的だったと思います。
(もちろん輪廻転生があるという前提で話を進めれば、僧侶の目的は、民衆のニーズ通り霊を成仏させるべきだという話で解釈されますが・・)

民衆のニーズは、霊の主体的な問題よりも、それも含めて、見えない世界を不安に思う「未来への不安」という民衆の悩みそのものの解消にもあったので、これは超越論的哲学とも反超越論とも特に矛盾しないようにも思います。

おそらく、今の僕のような、このような「あるか、ないか」という悩みも、煩悩であり、「われ存在す」という思い(我執:過去への後悔か、未来への不安)が根底に存在するからであると思います。

だから「われが存在する」という自覚は”存在しない”迷妄として断ぜられるべきものなのです。
それは我執のもとであるからです。

仏教の目的は、悟り。
すなわち諸々の煩悩をなくして、解脱(げだつ:輪廻の繰り返しから抜け出して)して涅槃(ねはん:輪廻しなくなる)に入ることです。

逆説すると、煩悩が生じるというのも「われが存す」という迷妄が根底に”存在する”からです。

これが仏教の蘊奥(うんのう:奥義、極意)であり、釈迦がダンマパダで語ったことの意味だと思っています。

この話題は尽きませんが、そもそも元より個人の解釈に依存する話なので、この辺りで話題の袂を分かつことで両忘させておきたいと思います。