南北戦争時のアメリカ国債や大陸横断鉄道などへの投資・投機により莫大な財産がありながら、親族にも周囲にも全くお金を出さなかったことで
“World’s Greatest Miser”(世界一偉大な守銭奴)でギネスブックにも公認された
ヘティ・グリーン(1834~1916)
(この守銭奴(Miser)を「ケチ(stingy)」というか、「節約(economy)」というか、で評価が分かれる)
「甘え」と「空気」の心理学
https://libpsy.com/amae-and-kuuki-psychology/877
でも書きましたが、日本では同じ意味なのに「否定的な場面」と「肯定的な場面」で使い分けられている言葉があります。
ある意味、表現が多様的なので、当たり障りのない表現(空気を読む表現)をする一方、それに支配されてしまうという危うさも持っています。
例えば、血液型判断などでよく言われる
「神経質」と「几帳面」
「自己中」と「自立」
「大雑把」と「おおらか」
「気まぐれ」と「見切りが早い」
…なども否定的、肯定的な場面で使い分けられています。
「批評」と「評論」
「否定」と「指摘」
「後悔」と「反省」
「執着」と「愛着」
「同情」と「慈悲」
「不細工」と「特徴的」
「デブ」と「恰幅が良い」
…などもそうです。
「ケチ」と「節約」も同じです。
「ケチ」は否定的な意味で使われ、「節約」は肯定的な意味で使われます。
「節約」は大変素晴らしい生きる智慧だと思います。少なくても「浪費」よりは建設的です。
しかし、自分が「節約」していているにも関わらず、まるで対価を求めるように他人が何も自分に与えてくれないことを嘆くとすればそれは節約ではなく「ケチ」です。
逆に、(少なくても向こうが与えてくれたのに)自分が他人に対して与えることをしないとすれば、他人からも「ケチ」と解釈されます。
なので「節約」の本質とは、自分自身のみの行動慣習なのです。
否定的な他人が間に入った瞬間に、それはどんなに動機が節約であろうとも「ケチ」と解釈されます。
日本では「空気」(無条件に雰囲気に従うこと)と「甘え」(言わずとも相手の好意をアテにすること)にの2つによって、
「節約」は社会的(空気)に素晴らしいとする反面で、その空気を協力的に保つために周囲に対して与えなければ「ケチ」と言われ、
「ケチ」は否定的に悪い意味、「節約」は肯定的に良い意味となっています。
日本でも「節約」は重視されるように、海外でもそれ以上に重視されます。
節約(economy)は、経済(economy)と同義です。
経済を重視する資本主義において「節約」とは徹底的に無駄を省いて、質素倹約して効率化することです。
なので資本主義の原動力であるキリスト教プロテスタントにおいて特に「節約」は重視されます。
少し歴史を書いていきます。
中世のヨーロッパにおいてローマ・カトリックは腐敗・堕落しきっていました。
「教会にカネさえ払えば救われる」と高位聖職者が発行(販売)した贖宥状(免罪符)などはその腐敗の極みです。
このカトリックに反対して、プロテスタントを創始したマルティン・ルター(1483-1546)は、
パウロの『ローマ人への手紙(ローマの信徒への手紙)』の中の『神の義』から、
人間はカトリックの言うように『善行(努力:世俗的な欲望を自制して他人を助ける)』のみによって救われるのではなく、
ただ全知全能の神の義(正しさ)を信じ抜く『敬虔な信仰』のみによって救われるのだという信仰義認説を解きました。
『主体性のある能動的な信仰』から『主体性を捨てた受動的な信仰』への転回です。
このような教会の司祭が権威で一番偉いのではなく、みんなが司祭のようであり、キリスト教の聖典である聖書に従って敬虔な信仰を行う者全員を司祭とするという考え方をプロテスタントで『万人司祭主義』と言います。
これと並行するように、
フランスのジャン・カルヴァン(Jean Calvin 1509-1564)は、『禁欲・勤勉・神への隷属・聖書中心主義』を重視しました。
とても聖書の記述に忠実な神学者であり、スイスのジュネーブでラディカルな宗教改革を先導しました。
カルヴァンの教えの骨子は、
・徹底的な「質素倹約(禁欲・節約)」
・徹底的な「勤勉さ(努力)」
・徹底的な「予定説」
の3つに集約されます。
・まず市民の日常生活から贅沢や娯楽を排除して、質素倹約(節約)な生活を維持する徹底的な禁欲道徳を説きました。
これにより娯楽や高価な衣服や嗜好品や言動まで厳しく禁欲されました。
・そして『職業活動に対する勤勉の精神』を説きました。
職業・仕事とは、神から必然的な業として与えられた『天職(calling)』であるとし、狂ったように四六時中も仕事(神への奉仕)をして『仕事で稼いだ貨幣の蓄積』を推進したので近代資本主義の精神の原動力になりました。
のちにマックス・ウェーバーはこれを行動的禁欲(aktive Askese)と呼んでいます。
質素倹約と勤勉だけでは、奴隷のように「貧しくても働くためだけに働く」になってしまい、「建設的な目的」を失ってしまうので、ここに「予定説」を入れました。
・「予定説」とは、唯一神が宇宙から人間まで全て創造したように、人間の運命も「すべて必然」として予定されている(予定表のスケジュールのように決められている)という聖書の教えです。
聖書に登場する預言者や聖人の運命が神によって生前から決定されていたように、
『人間が死後に救済されるのか否かは、全知全能の神の意志によって生まれる前から決定(予定)されている』という教えです。
その世界観の中で、キリスト教において最も恐れられているのは「最後の審判」で神様に選別されて「永遠の死」という(わけの分からない)死です。
元々エデンの花園で神の命令に背いたアダムとイブは「禁断の知恵の実」を食べたからこそ、『死(有限性)の苦しみ』という罰を与えられます。
それから「人は必ず死ぬ」(有限)として今も子々孫々継承されていると考えられています。
これは「原罪(オリジナル・シン)」呼ばれます。
それから救済してくれるのが「神」とキリスト教では説きます。
いつ救済してくれるのかというと、正確には決まっていません。
しかし、いつか「最後の審判」が起こって、人間は「再び肉体を得て人間になる」か、「永遠の死」を迎えるか。
・・の二者択一の選別をされると言われています。
(なのでキリスト教では、また復活した時のために肉体を残そうと土葬にするわけです。そして永遠の死というわけの分からないものを一番恐れます。)
この選別基準すらもさっぱり不明です。
そもそも予定説で「全て決められている」ので、古代のローマ帝国時代の教父であるアウグスティヌス(354-430)が『自由意志論』で言ったように、全知全能なる神の善悪の判断基準を知ることは原理的に不可能であり、神が全てを決めているので、人間に「自由意志なんてない」と考えていました。
もちろんカルヴァンも「人間に自由意志なんてない。神がすでに全てを決めている。」としつつ、神様に選別される基準は分からないので「善人だろうが悪人だろうが救われる」としました。
ここまでなら
「最後の審判がいつかも分からない、選別基準も分からない、もしかしたら悪人が救われるかもしれない、なんて無責任なんだろう。」
「それなら人間が「質素倹約(節約)」や「勤勉」をしても無意味じゃないか。」となるところですが、
ここからがカルヴァンの強烈なところで、
とはいえ少なくても、最後の審判で救われるのはキリスト教の信者であることや神の全知全能を肯定するカルヴァンの予定説を信じていることは必要条件として推測できるので、
『最後の審判で救われる予定に入れられている人間』は、全能の神をこの上なく尊敬し、キリスト教の聖書の教えを忠実に実践する敬虔で熱狂的な信者である。
・・というわけです。逆説的な発想ですね。
これが猛烈に流行って、奢侈と華美を徹底的に排除した禁欲的な信仰生活を普及させ、絶えず勤勉に労働と信仰に励む模範的なプロテスタントを数多く生み出しました。聖書中心主義とキリスト教原理主義の信仰です。
そしてそれが絶対王政を打破して近代資本主義を生み出すわけです。
それゆえにアメリカのような資本主義国家では、
「節約」とは、
「経済」と同義であるように、経済を重視する(国は小さな政府に節約して経済を重視すべきだ、個人の自由意志なんてない、神が決めることだ)とする保守的な意味合いでは肯定的に使われます。
それに対して「ケチ」とは、
個人(国は個人の自由を尊重すべきだ、小さな政府で節約なんかしなくていい。…というの逆に悪く言えば全体主義)を重視する左翼的(リベラル)な意味合いで否定的で使われることがあるわけです。
↓この保守と左翼の対立を「福音主義(聖書中心)の神学 vs 自由主義の神学」ともいいます。
進撃の巨人リヴァイ兵長の名前の元ネタ映画!(ジーザス・キャンプから学ぶ福音派)
「ケチ」か「節約」かは、それこそ個人の行動慣習に委ねられると思いますが、「節約」であることは、同時に「勤勉」の論理も引き連れてくるので、多からず少なからず割合的にはお金が貯まります。
そんな時、さらに自分が勤勉になることを期待して「投資」をする、あるいは「ケチ」という悪評によるリスクを避けるために「寄付」などの形で利他的な動機で出費するのが、合理的な選択ではないでしょうか。
利他的な動機で行っても認められず、それに対して「ケチ」という人がいても、それは言う人の方がケチなので放っておけばいいのです。
「節約」とは建設的に勤勉になるための手段なのです。