身近なところでは両親・祖父母などの家族関係、あるいは学校や会社などでも急に「彼」が登場することがあります。
それが絶対・無敵・最強の「世間様」という登場人物です。
きっと分かる人にはよく分かると思います。
世間様の特徴
・すさまじく社会的な地位とが高いらしい
・すさまじく高所得らしい
・絶対正義で聖人のように良心的らしい
・命令を聞かないと怒るらしい
・常に他人の家を監視しているらしい
・かなり怒りっぽく、気に食わないとすぐ石を投げてくるらしい
なぜか「世間様」は、大人であり絶対正義で良心的というわりには、すごく命令調で他人を抑圧して怒りっぽい傾向があるようです。
大人と自称するわりには、発想と行動がまるで幼少期の子どもみたいですね。
・・もちろん、こんな登場人物は「存在しない」ことは分かります。
結論から言えば、自分は上の立場にある(と思っている人が)自分の一人称を「世間、一般、常識、みんな、社会、空気」と、複数形に言い換えることで、説得力と安心感を得ようとしているだけです。
しかし、日本は特にこの「世間様」が実体として確固として「存在する」ものとして扱われているように感じます。
「甘え」と「空気」の心理学
https://libpsy.com/amae-and-kuuki-psychology/877
↑こちらでも書きましたが、この正体を「空気」と言います。
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定義によれば「空気」は、「論理や主張を超えて人々を束縛するもの」です。
空気は、まったく筋が通らないことでも通そうとする「非論理」を含みます。昔の日本ではこのように「その場の雰囲気に流されること」や「その場の空気に左右されること」は「恥」と言われてきました。
つまり肯定的な意味で使われてはいけません。否定的な意味で使われる言葉です。
社会心理学者・加藤諦三氏は、「家庭に生まれたつもりが、会社に生まれてしまった子は不幸である。」と述べていました。
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つまり、家が家庭ではなく、会社構造(※1)なのです。
(※1)歴史的背景から正確に言うと、古代中国から理想とされてきた王土王民(王土王臣とも)、すなわち「土地と人民は王の支配に服属する」という理念を具現化しようとする体制から始まり、これが日本で7世紀頃から「律令制」(中央集権的な統治制度)となったのと並行して、儒教の五倫(父子、君臣、夫婦、長幼、朋友)関係を維持するという思想(帝王学=今で言うビジネス経営の啓発書)が「上のものに従え、親や上司を敬って従え」という変質した形で儒学(朱子学)=武士などの階級制度に権力者に利用され、それが会社・学校では身分・職業・学歴・財産などにより形成された社会集団の「階級制度」(≠階層)としてピラミッド型の上下関係(ヒエラルキー)で定着した。その縮小版として、1898年(明治31年)に制定された民法において「家族制度」で戸主に家の統率権限を与える「家制度」(家父長制)で同じ構想になっている。
かく言う私も幼い頃、家庭内で、
「親の発言には無条件で従うこと」を大前提として、
発言する際には挙手する発言挙手制、
必ず自発的に挨拶するあいさつ制、
電気を消したかチェックシートを記入する電気消し制、
常に言ったとおりに動いているか室内をチェックする監視カメラ制、
あった出来事・成績は家族内で発表して今後の反省と抱負を定めなければならない発表制、
毎回外出する時は親と祖父母に行き先と門限を守る許可証を提出しなければならない許可証制など、
親自身は、テレビの前でお笑い番組みながら屁こいてギャハギャハ笑って1つも実施していないのにも関わらず、子どもに対しては、このような(今考えれば)気が狂ってるような謎の制度がありました。
これに逆らうと
「世間様に逆らうのか!」「それは世間様が許さない!」
「社会でこれが守れないとやってけない!」
「誰が育ててやったと思ってるんだ!」
「下っ端の癖に文句いうな。上の者に従え! 上は常に正しく、下は常にその責任を取ればいいのだ。」
などの、よくある「親の常套句(じょうとうく)」を言われていました。
親や祖父母のいう「世間様」というのは単に自分自身のことで、その代弁者であると思い込んでいたのです。
それを言えば思い通りに子どもが管理・支配できると思っていたのです。
しかし「誰が育ててやったと思ってるんだ!」というのは、
教育学者ニイル(※2)の言葉を借りると「感謝を要求する親は最低の親である」「最低の父親は、子供に感謝を要求する父親である」 です。
(※2)1883年スコットランド生まれの教育学者。進歩的な教育論で教育界に話題を呼んだ。教育制度が大人の神経症的イメージを子供に押しつけるもの
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より
つまり「原因と結果」「動機と行動」が、逆転しています。
そもそも「誰が育ててやったと思ってるんだ」は自爆する言葉です。愛情・金銭とわず「親が育てた結果でこうなった」のであって、「原因は私です」と親自身が認めているようなものです。
「確かに私を育てたのはあなたです。つまり原因を作ったのはあなたなのに、なぜその結果に対してあなたが怒るのですか?自業自得じゃありませんか。」と聞き返してあげればいいのです。
何十年経って、自分が大人になって親になったり、親が死んだとしても、
百歩譲って「感謝はできても、尊敬はできない」というのが、良い落とし所の最終防衛ラインだと思います。
子どもの頃に「世間様」「世間様ガー」と言われ続けたせいで、本当にそういう人物が「実在する」と思っていましたが、
単に親(あるいは教師・上司など自分が上の立場にあると過度に意識している者)が自分の一人称を「世間、一般、常識、みんな、社会、空気」と、複数形に言い換えて、自分の説得力と安心感を得ようとしているという、非常に傲慢で独善的で不純な動機でした。
これは心理学では「過度の一般化」と呼ばれます。
特に不安障害・人格障害・精神病によくある、「自分の考えや言うこと=世界の全人類が共有すべきこと」という「誇大自己の妄想」です。
場合によってその立場を誇示するために、強制的支配だけではなく、過干渉などの過度の管理体制も作ろうとします。
「社会的なモラル」という意味で最低限の道徳・倫理的なことを守るという便宜的な場面のことならまだ分かりますが、それが上の立場のものに都合のいいように言い換えられていないかはよく洞察して吟味する必要があります。