「生活」の「生」と「活」は必ず厳密に分けること

カウンセリングで「生活」の「生」と「活」は必ず厳密に分けること。
単なる生存確認で「生きていればいい」わけではなく、「活」動していなければ危うい。すぐ死ぬから。
「活」とは就労して働くという意味ではない。
日常生活動作(ADL)が習慣化されているか?ということ。

「それでマインドフルネスに活きてると言えるのか」と心理師仲間から言われ、往復ビンタと腹パンを同時に食らったような私にとって火の玉ド直球。心を建設的に折ってくる。こういう指摘をしてくれる友人がいてくれて良かった。

「自分を中心に不幸を嘆くことをゴールにする」をゴールにする人がいて、問題は嘆くが提案も跳ね除けて解決しようとはしない。

幼児期につまずいて泣いて、親や周囲のみんなが自分に注目して賞賛して助けてくれた原体験が、90代になっても尚、そのコンフォートゾーンのまま変わらず出てくる。

解決法が「提案できない」こそ嘆いて助けを求める、のは正常なので全然問題はないが、
フォーマルな解決法が提示されても「跳ね除ける」のは心理的抵抗感があって深刻。
これは過去に自己意思決定した成功体験の原体験がないから。

心理的逆転が凄まじい行動不全を生む。

生活保護まで飛ばなくても「役場へ行こうね」とかそれも「面倒くさい」の一言で片付けられる。
本人は問題を嘆くのがゴールなので解決したくないから。
それ以前になぜ問題に向き合うと回避・否定するのか?
解決できない自分への否定感があって、それを見たくないから。

他者の成功体験を憎しむドリームキラー。
「自分ができないことが他人にできるわけがない。」
「自分だけができるんだから他人ができるはずがない。」
という幼児的な承認欲求ゆえの、悪意の証明、精神病的な自己愛型の嫉妬、神経症的な非現実的欲求、強迫性障害。仮想的有能感、シャーデンフロイデ。

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