なぜ明智光秀は医者だったのか?

政治経済・近代学問

つい最近になって明智光秀の若いころの意外な職業が発見されました。それは「医者」です。

明智光秀は前半生は、斎藤道三・義龍親子の争いにより明智城から逃れ、越前(今の福井県付近)大名のである朝倉義景を頼って10年程仕えたとされています。
また細川藤孝の中間(部下)であったともされています。

いずれにしろ清和源氏・将軍の足利氏の支流である朝倉氏や細川氏のコネクションがありました。
これは明智光秀が名門の土岐一族の出であったことも関係していると考えられます。

なぜ明智光秀は医者だったのか?

明智光秀が医師だったと言われる所以は、2014年に熊本県で発見された「針薬方」という書物です。

「針薬方」は足利義昭、細川藤孝、米田貞能が永禄9年(1566年)9月に書写した医学書で、その中で明智光秀が「セイソ散」という傷薬の作り方を口伝で教えたことが書き記されています。(元は近江の田中上(滋賀県高島市)で光秀が籠城した際に口伝した)

(前略)
同 付薬 セイソ散 越州朝倉家之薬也
巴 蕉ノ巻葉霜 スイカツラ霜 黄檗霜 山桃実 同皮各霜
(中略)
葉少ニテモ不苦、油にて可付也 一説妙薬之とアリ二星三同方
キツニ先付薬
(中略)
右一部、明智十兵衛(明智光秀)尉高嶋田中籠城之時口伝也、本ノ奥書如此、

当時は今のように医師も薬剤師も区別はありません。
医学知識を得て明智光秀は医者として治療していたと考えられます。

調合されるものは、「芭蕉の葉、山桃(ヤマモモ)、スイカズラ、黄檗(きはだ)」とあります。
「霜」とは黒焼きにして粉砕するという意味です。
4つの材料を油をつなぎとして各同じ分量を調合せよ、とあります。

傷に塗る塗り薬として使っていたようです。

日本の医学は、中国の金とモンゴルの元発祥の「金元医学(きんげんいがく)」の中の一派である李杲・朱震亨の医説・李朱医学が室町時代に日本に伝わっていました。(のちに漢方となりました)

中でも越前は医療の最先端をやっていました。
(『湯液本草』(元の医学書)の出土、朝倉孝景が招請した谷野一栢が『八十一難経』『霊樞集』『素問』等の医学書を書き、典薬頭・半井明重を庇護、家臣の大月景秀が万金丹の考案した)

この針薬方の中で分かったのは、
・明智光秀は若いときに朝倉家にいたということ。
・朝倉家の医師として薬を調剤して治療していた。(それほど信頼される重要なポジションにいた)

ということです。

セイソ散の有効成分とは?

明智光秀が製薬していた朝倉家の秘薬・セイソ散。

漢方の有効成分まとめてみました。

・芭蕉(清熱・解毒・利尿)
・ヤマモモ(アントシアニン=抗酸化力)
・スイカズラ(抗菌、抗炎症、解熱、利尿)
・黄檗(消炎、健胃、清熱、解毒)

戦国時代に傷薬として利用していたようですが、飲み薬の方が良かったのではとも考えられます。

この効果を見ると「良い薬草全部混ぜ」の万能薬として用いていたのかも知れません。

信長を操り、見限った男 光秀: 史上もっともミステリアスな武将の正体

病が語る日本史 (講談社学術文庫)

中国伝統医学の日本化 ツムラ漢方
https://www.tsumura.co.jp/kampo/history/03.html

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