歴史研究の「一次資料さえ今後出て来れば」という無限の夢

歴史研究で一次資料とその二次資料で固められていればいいけど、それ以降「その答えありき」で結論から演繹するので、帰納法の科学的手法で積み上がってきた場合に論拠が耐えきれないことが多い。

そこで「一次資料さえ今後でてこれば」と期待するのだけど、古い時代ほどその可能性は低く、偽書だったりと信憑性が低い。
なぜかそこで「昔、偉い〇〇先生も言ってた」とか個人の発言の権威で固めてスタンドバトルしたり、しまいには「故人を降霊術で呼んで証言してもらおう」とか「なんだこれは…」という路線へ向かうことがある。

古い時代ほど印刷はなく、文字も書けない人が多いので資料が少なくなっていくのが普通。

さらに一次資料すら、文語体どころか口語体どころか、伝承の口伝の口伝の口伝の、漢文の当て字だったり。

仮に一次資料と呼ばれるものが出てきてたとしても、また遡らなければならないので、それが一次かどうかの信ぴょう性の判断は困難。

文字で書かれてる時点で口伝より後になるので。

例えば、お経は特に顕著で、いくら古いお経が出てきても最初の教えは「口伝」しかないのです。
まず文字がなく、文字を書いて残すことができないからです。言葉で言い伝えるしかありません。
これを口語体で書き写しても、それが本来の言葉と合致しているかを検証するのは困難です。
ここで「まだ古い一次資料が今後出て来れば」と言っても無限にキリがないのです。
しかもお経は音から中国で漢語にされ、その時代の解釈で意味を読み替えられ、加乗(加筆)されてもはや原型を留めていません。
最も古い般若心経と呼ばれる法隆寺のものでさえ、すでに漢語なのです。
それ以前の文字には還れません。

「一次資料さえ今後出て来れば」と何世紀かかっても達成できないであろう、幻の期待をしながらそのまま亡くなっていく方が多いのです。

どこかでやり方を近代以降の科学的帰納法へ転換しないといけないのだと感じます。

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