「拝む」という行為に対して、
「弱い心の者がすがる依存」
とか
「現実逃避」
とか
「御利益を求める打算」
とか言う人は、本質的に仏教の知識が浅はかすぎる。
「礼拝」とは「対峙」
拝むことで自らと向き合い、より抽象度の高い神仏へコンフォートゾーンを投影してホメオタシスすることが本意である。
例えば、神道(神社)は鏡が置かれており
「鏡を拝む時、映るのは誰か?」
等と問いかけることがある。
それは自分なのである。
仏に対しても同じで
「仏であればどうするだろうか?」
という極めて抽象度の高い問いを礼拝(らいはい)を通じて自分との対峙の投影とすることで、その空間にアクセスして適応させる効果がある。
常に自らのコンフォートゾーンの外側には神仏などの達成できるかできないか有るのか無いのか不明なものを置くことで、
内側での抽象度を上げる作業(情報包摂)および具体的なコンフォートゾーンでのゴールイメージが作りやすくなる。
「礼拝」とは外側と内側を繋ぎ再自覚・再構築する役割がある。